2005-09-22から1日間の記事一覧

「他人の立場に立つ」ことと「自分の身になって考える」ことが同義なのはおもしろい。国語の授業で、それが「自己中心的利他性である」ドカーン、「そして人間は自己中心的利他性から脱することができない」ズバーン、と習ったけれど、それ、「思いやり」ってよべばよくね?とか思う。あのひとが、されたい!だからしたい!と本気で思ったことを、してもらえるんだよ。どきどきするよ。うれしいよ。

(受験記001日目 2005-09-14(水)より) ●自分のわからないことは思いやれない 思いやりとは、思いを、やることだ。 放課後の勉強。ため息をつくクラスメート。椅子をひく。ギーギー鳴る。うるさい。だが不快でない。みんなつらいんだよ、とか、みんな暑い…

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こういう単文エントリは控えるようにしているのだけれどなあ。

どうしても、あまりに気軽なものだから、やってしまう。はてなダイアリのおそろしいところである。

きょうは学校でプレゼンをやりました。一人称は「僕」にしました。なぜなら、「僕たち」という言葉を、視点を、伝えたかったからです。

なぜ文章を書くのかということ、忘れられるようになるからだ。二度と再現したくないけれど、でも失いたくない。そういうときは文章に書いてさっさと忘れてしまうのがいいよ。

こうやって何気なく書くと、いかに「文章を書く」と「文章に書く」の区別が無意味かがわかる。区別が効果をもつのは、対立のある場合においてだろう。

「文章を書く」と「文章に書く」とでは、だいぶ違った意味に感じられる。さいきんは「文章に書く」ことを意識している。

体験から書かれた日記は新しい知的発見で、自分語りによって視点が広がる

ちかごろは日記よりも随筆という呼び方を好んでいます。体験して、感じたことを書けば、それで随筆ってよべるみたいですよ。お買い得ですね(?)。随筆の書き方は清水義範『大人のための文章教室』が参考になると思います。「書くことは考えることだ。考え…