ぺたぺた

(2004-10-08)
さて、個人ニュースサイトをはじめた人は、個人ニュースサイトをはじめたことがあるはずです。「はじめてないけど、はじまってた」という方は、精神病院へどうぞ。

そのとき彼らに、「迷い」や「疑い」はなかったでしょう。「個人サイトなんて意味あるのかよ」と思いながらサイトをはじめる人は、少ないはずです。このことは、赤ちゃんや子どもにおける無邪気さに似ていると思います。(たとえ最近の子どもは「クール」だとしても……)はじめから人生というものに疑いをかけている子どもはいなくて、実際に人生というものを経験することで、はじめて「迷い」や「疑い」が生まれるのです。

小学生に哲学させてみて、いくらか斬新な考えがみられたとしても、やはりその深みは大人には勝らないでしょう。個人ニュースサイトにおいても同様です。いきなりサイト論も何もありません。

(2004-10-08)
文章には「書きごろ」がありますよね。「書きたい」と思ったときが、ソレです。きょうの雑記にて、僕なりのサイト論について一段落つけようという文章を書いたのですが、「書こう」と思ったのは、実は数日前です。

大まかな考えは書きとめてあった。しかし、それが「言葉」にならない。「考え」はあるのに、「思い」を伝えるカタチに変換できない。「思い」が薄れたからだろうか。

書くということは、「考え」を記すこと、「思い」を伝えることの二つの意味があると思います。「考え」というのは日を重ねるにつれて整理されますが(レミニセンス)、「思い」というのは日を重ねるにつれて風化していくように感じます。(これはこれで正しい働きでしょうね。嫌なことも翌日になれば気が軽くなることもありますし、そうやって「思い」の均衡を保っているのが人間なのでしょう。)

「考え」を記す文章は、大いに時間をかけて構成していくべきでしょう。ただ、「思い」ははかなく、しかも書くことでしか残せない気がします。あなたに強い思いがあるなら、それを、いま、記して欲しいです、……嘘です、そこまで気が回りません。少なくとも僕は、「思い」を失うのが恐いから、おそらくこれからも文章を書いていくのだろうなあ。

(2004-10-13)
僕は、なりたい職業はおろか、大学の進路もまだうやむやです。いま、なにか一つ志を挙げるとしたら、「賢くなりたい」。
(中略)
それでも、僕は理系的な思考基盤のほうが素敵だなーと思っています(これは偏見でしょうね、うーんどうだろう)。唯物論的または数学的な根拠をもとに考えるのって、なんだか安心できますよね(これも偏見だろうなー)。

かといって、それでは限界があるんですよね。たとえば、いくら神経細胞の働きが解明できたところで、それが人間の知性や情動の解明に直結するとは考え難いです。その壁を乗り越えるには、論理や事実といった確からしいレールの上から、少し足を踏み出してみることも必要だと思います。

僕はどっちかというと、足をぴょこぴょこ踏み出したい困ったチャンなので、理系的な思考と文系的な関心のあいだを行ったり来たりしているのです。理系的な思考をもとに、レールを敷く。文系的な関心から、敷いたレールからあえて飛び出す。なんだか贅沢だね、うひひ。

(2004-10-15)
さてさて、僕個人としては、「ノンビリ」と個人サイトをやっていく意向はあまりありません。僕にとって、ウェブは忙しい空間だから、です。くろぽを更新しなくても、ウェブ上の情報はぼこぼこと生み出されて、僕はそれに触れるたびに革新を迫られます。その革新は無意識的に起こり、ぼーっとしていると、僕の意識は僕の無意識においていかれるかもしれません。だから、意識で無意識でまさぐるように、日々くろぽを更新するのです。

(2004-10-17)
「しかし」より「ところで」の方が穏やかだ。

(2004-10-19)
「何かをする」ということは、「何かを理解する」ことと同時に、「何が理解できていないかを理解する」ことでもあると思います。何もしない時点では、たしかに「何もわからない」状態で、あまり面白いことはありません。でも、ちょっとやってみれば、「わからないことがわかる」ようになり、そこから興味が出てきたりします。

雑記を書けば雑記を読むのが楽しくなって、小説を書けば小説を読むのが楽しくなる。与えることで受けることが楽しくなるんですよね。さらに与えること自体も楽しかったりしてね、それはまるで、いや、僕はしたことないんだけど、むにゃむにゃ。

まあ僕なんかは普段ボエーっとして生きていきます。「生きる」という能動的な言葉でなく、むしろ「生かされている」といったところでしょうか。でも、たまーに真剣になって「生きる」ことで、他人が「生きる」ことや、他人が「生かされる」こと、そして自分が「生かされる」ことも楽しくなったりするのかなー、と思います。

(2004-10-19)
でも人間の美しさって差別にあるよね。あらゆる人間を平等に愛す人間、そうそう博愛、これってキザったらしいよね。まあまあ、カミサマなら話は別だけどさ。人は何かを好きになって、同時にそれ以外のすべての価値を下げて、自分のこだわりとかを築くよね。僕にはよくわからないんだけど、愛というのもそれだろうね。独占欲というか、「お前はオレのものだぜえ、オレだけのものにしたいんだぜい」みたいな、ジャイアニズム。差別なのは明らかで、醜いようで、美しい、人間の欲望。「何かをしたい」と思ったときの「何か」は「限定」されたもので、それを「したい」なら「限定に手を加える」ということで、すなわち差別だよ、みたいなー。

(2004-10-23)
なぜ点数が悪いのか──それは勉強しなかったからです。どうすれば良くなるか──勉強すればいいです。そんな当たり前のことを尋ねないでほしい、疑問に思わないでほしい、先生がたよ。「ここらへんがあまりできてない」といわれても、そこもかしこも勉強しておりませんわよ、わたくし。「ここをもっとやったほうがいい」といわれても、なにもやってないのだから全部やりますよ、テンスーのためにベンキョーしてるんちゃうから。

以上の気持ちは、「『勉強』と呼ばれるもの」への幼い反発心にすぎません。しかし、僕は反発なくして前進することはできません。なぜなら、僕は常に後ろ向きだから、前に進むにはひねくれるしかないのです──って何この理屈。

(2004-11-04)
人が自(おの)ずからの感情に逆らうには、その感情に慣れるしかないのでしょうか。『ドラゴンヘッド』というマンガで、「怖いものはやっつけるか友達になるしかないんだ」という言葉がありました。この場合、「やっつける」とは人の命を軽んじることでしょうか。「そんなもの、くだらない」と切り捨ててしまえば、人の命に悩まされることもありませんし。「友達になる」とは、上の「うひい、エグいや」のように、人の命を楽しむことでしょうか。

人の命に無関心になること、あるいはエンタメとして捉えること──僕は今の「気持ち悪」さをかき消すために、このふたつの思いの間を葛藤しているように思えます。しかし、そこに命を尊ぶような、いわゆる道徳心や倫理観はありません。何か道を踏み外しているのだろうか? そもそも、殺したり殺されたりすることを「気持ち悪い」とか「醜い」と表現することがおかしいのかなあ。

(2004-11-07)
世界は変わる。すなわち、自分の位置が、変わる。世界と変わる。自分の位置は保たれる。しかし、自分が、変わる。すべてが変わらないことは不可能だ。しかし逆にいえば、何かを、変えないことはできる。

(2004-11-13)
びしっ、びしっ、とサイトを分けたり、日記ちっくにいろいろ書くサイトもありますが、そのどれもが素敵ですよね。いちばん悲しいのが、無理に分けたり混ぜたりして、中の人が縮こまってしまうことだと思います。分けるとか混ぜるとかいうのは、人それぞれです。各々がいちばん馴染めるかたちでサイトを運営していくこと、もっといえば、そういうふうに人生をおくることが楽しいのだと思います。

(2004-11-16)
書くことは成長すること。成長することは、できないことができるようになること(あ、「こと」「こと」結びは悪文だわ。まあいいや)。できないときに、それができないことは、普通。できるときに、それができないことは、駄目。

それなら、書けば書くほど、成長すれば成長するほど、駄目な可能性が増えるのではないか。「思いが沈んでいる」ときに文章を書く──気持ちの整理がつく──書くことの魅力を知る──成長。「思いが沈んでいる」は解決された。だから、もう「思いが沈んでいる」は駄目だ。

なんとか、できる。「思いが沈んでいる」は、文章を書き続けて解決できている。さあ、「もっと思いが沈んでいる」状態になった、どうしよう。もっと書けばよい。「もっと思いが沈んでいる」ときにもっと文章を書く──気持ちの整理がもっとつく──書くことの魅力をもっと知る──もっと成長。「もっと思いが沈んでいる」は解決された。

だから、「思いが沈んでいる」のは駄目だ、「もっと思いが沈んでいる」のも駄目だ。そして、これからも解決を続けて、駄目なことが増えつづけるだろう。終わりのない解決に、立ち向かい続けるだろう。

以上が、A君。ここでB君が登場。B君は書くことを知らない。そして、「思いが沈んでいる」。ここで二人に問おう。

つらいですか?

ここであなたに問おう。

どちらを選びますか?

(2005-01-16)
僕は答え合わせとか復習が嫌いで、これは(学生として)最大の弱点である。学生としてじゃなくてもマズい。むしろ学生のうちはまだよい。点数が取れないだけですむからだ。目の前に問題が「答え合わせ」や「復習」で解決しきれない状況にぶつかったとき、僕はなす術なく崩れさる。
答え合わせや復習は、自分の無知や誤謬を認めることに等しい。自分に何か欠けているかを知り、それを補う作業である。そこには自分への諦めが必要である。いまの時点で自分がいかに矮小な存在であるかを実感し、ひいてはこれからの可能性までも閉ざされるような錯覚にとらわれる。本当はその逆であることを、理屈の上では知っていながら。
僕がウェブを好む理由は、自分が否定・非難されることが少ないことによるかもしれない。ただし否定・非難とはおおげさなものでなく、漢字を忘れたり計算ミスをしたりするようなことだ(おおげさなそれも含まれるが)。これはもちろん逃げである。姑息な自己防衛にすぎず、ここからの成長は望めない。
それどころか、僕はウェブに逃げて、ここでもさらに逃避を続ける。むしろウェブはそれに適した空間である。好きなときに好きなところで、好きな部分をかいつまめば、十分に楽しめるし、学んだような気にもなる。「アタマよくなったようなきがする」のは簡単なのである。
エピクテートスとかいう哲学者さんは哲学の起源は、自己の弱さと無力を認めることであると言ったそうだ(ヤスパース・著/草薙正夫・訳『哲学入門』から孫引き)。また、精神科医斎藤環氏は、「大人になるには、『万能』の象徴であるペニスを取り去ること、つまり『去勢』が必要である」と言う(うろおぼえ)。僕にはこれが腑に落ちなかった。いまでも(理屈ではわかっていながら)受け入れられない。
弱さを認められないゆえの、弱さである。「アタマよくなったようなきがする」ことで気持ち良くなって、その先を恐れ、逃げまわる。もっとも、この文章がその「逃げ」にあたるかは、これからの意志次第だが。

(2005-01-24)
価値観とは、何を大切にしたいかという気持ちである。
たとえば僕にとって、「楽しい」ことが大きな価値をもつ。これまでに何度か紹介したが、リーナス・トーバルズ『それがぼくには楽しかったから』からの影響が大きいと思う。「努力」や「頑張る」ことよりも、楽しもうとしている。
気がつけば、楽しいという感情を忘れていた。
そもそも、楽しいとはどういう気持ちだろうか。楽しいときに「今って楽しいよな」とかは思わないだろう。その感情に気付くまでもなく、何らかの対象に没頭しているはずだ。楽しいことに気付くのは、その楽しいことが終わってからである。楽しかったときのふわふわした感情を振りかえって、「楽しい」という言葉を当てはめているのだ。
言葉は有限であるが、感情が有限であるとはとても思えない。自分の価値観を何らかの言葉で表すのは、あくまで便宜上の表現である。そのことに気付かないでいると、価値観は薄れていく。言葉ばかりが先走りして、言葉では表せない感情を忘れていくからだ。
楽しさに絶対ともいえる価値を見出した。ゆえに、それは多くの場面で適用されていく。僕にとっての「楽しい」という言葉は、もうネガティブな使われ方しかしていない。嫌なことだから、せめて楽しもう。めんどくさいけど、どうせなら楽しもう。まあとりあえず、楽しもう。これが価値であるとは、情けない。
ひとつのことに強い価値を見出すのは、危険なことでもある。もともとポジティブであった価値が、からっぽな言葉に先導され、ネガティブにまで広がっていく。そうすれば、価値なんていうものは、疑わしくなる。価値を信じれば、裏切られる。

(2005-01-25)
僕はさいきんネガティブだ。ネガティブだ、と言うくらいだから、ネガティブだ。言えば言うほどネガティブになる。ネガティブだ。ああ、ネガティブだ。(以下、ネガと呼ぶ)
しかし、楽しい・面白いと感じ、ひたすら物事に打ち込めるときもある(以下、そのときの感情をポジと呼ぶ)。たとえば本を読んでいるときや、数学の問題を解いているときである。それが一段落ついても、ポジは持続している。もっと読もうとか、賢くなったぜうひひとか、うはwwww解けたwwwwwとか思い、やる気は途切れない。
その反面、ネガの状態は、どうやってもネガである。手もとにある一冊の本を楽しむことや、目の前の問題にハマることはある。だが、それを終えるだけで、一気にテンションが下がる。そのうえ「なんでこんなのにハマってたんだ?」と懐疑するほどだ。
そのときに、ポジである自分を思い起こしてみる。が、できない。ポジの自分が、まるで理解できないのである。むしろ正確には、理屈では理解はできるが、納得と実感ができない。ネガである自分は、ポジである自分をまったく受け入れられないのである。
一方、ポジである自分にとっての、ネガである自分についてはどうか。これも同様である。ポジである陽気な自分は、ネガな気持ちについて何も納得と実感ができないのである。「なんの意味があるんだ」と疑うネガを、「だって楽しいじゃん」という気持ちだけで一蹴できてしまうのだ。
──
僕はポジでありたいと望む。ネガに打ち克ち、ポジである自分を引き出す術を得たい。だが、それは無理なのだ。ポジを望めば望むほど、ネガはそれを嘲笑い、僕を深淵へと引きずり込む。
「解決」は不可能である。ネガそのものを、忘れるしかないのだ。忘れて、ポジである自分だけを肯定する。その過程にはなんの哲学もない。都合よく感情を切り捨てて、なんとなく都合のいい感情だけを選り抜くだけだ。
それでポジになれるのだから、情けない。情けないと思うのはネガだから、ネガの方が哲学ちっくなんじゃないかとも思う。こう思うのはいまの僕がネガだから。ポジならこんな文章は書いていない。そう思うと、ネガの方がまだ知的な感情だとも思う。だからネガの方がいい。この発想自体がネガなんだけど。(以下トートロジー

(2005-01-26)
でも、嫌なことが大きな意味をもっているなら、僕のとっての意味にとって大きな意味となりうる意味ならば(?)、僕はそれを喜んで抱きしめる。痛さゆえの快感。である。この世に意味のないことはない、というが、僕は共感できない。むしろ、意味のないことの方が多い。その中で、嫌なのに意味を持ったことがある。その裏面に、あるいは対極に、ときにはそれ自身に、好きなことが、あるのだ。

そもそも、人は苦しみから生まれる。生む。はじめてのあれも、まあ、これは女の子の話だけど、痛い。ましてや、その穴から一つの命が出てくるなんて、男の僕には想像もできないけど、苦しいと思う。生まれてくる命もたまったもんじゃないと思う。あんな狭いところから押し出されるんだもんな。でも、人は生み、生まれる。苦しみの中に、喜びがあるからだ。

思い出せない。けど、きっと苦しんでいた。僕自身も、僕の母も、それを不安げに見守ることしかできない父も。あなたも、そのご両親も。人は数え切れない苦しみの中で、代えようのない喜びを手にしてきた

(2005-02-05)
ちくしょう。時間ねーよ。明日はサイト論らしきものでもうpします。日記とか書きたいんだけど。つーかまぢ、最近学校すげーおもすれーから。ぶっちゃけ書かずに自分だけの思い出にしたいね。でも書かないと忘れるんだよね。だから書くよ。でもおまえらには読ませねえ。ぎゃは。それにしても、ほんと僕は女の子と接するのが苦手なんだよばかやろう(「接する」って「セックスする」みたい)。うえーん。くそうぼけかすあほ。なんで僕はこんなに純情なんだ。でもこんな自分が好きなんです。ぽっ。いたた。

(2005-03-10)
自分の思惟というものに固執していたのだ。その背景には自分に対する自信がある。たとえば本を読んでいるときに、自分が考えていたこととほぼ同じ考え方に出会うことがある。嬉しいのだが、損した気分にもなる。自分の考えが、公に意見を示せるほどの人物と等しいことは、たしかに嬉しい。だが、けっきょくガイシュツだったのだ。たいしたことないぢゃん、と思う。
傲慢である。単なる高校生の浅はかな思惟が、それほどの価値を持つことはない。ある人物の考え方と重なったとしても、たまたま自分の最高点がそこに届いたと考えるのが妥当であろう。そのことから目をそむけ、自ら生み出す思惟を信じ、それを書き出そうとした。しかし、書けない。ただ悩むばかりである。

(2005-03-24)
ところで、「とても気に入ったから紹介したけど、あまり広まらない」という(主にニュース系)サイト運営者の悩みがある。さらに、たとえ広まったとしても、それが実際にどれだけ読まれているかは、知る術がない。「(じっくり読んだら感動した!)これすごいんだぜ!」と情報を提供しても、「(うわっ、すげえ長文!)おお、すごいな!」というすれ違いが起こっているかもしれない。
(中略)
良い講義の受け方とはどのようなものだろうか。そのひとつに「講師の発言を能動的に捉える」という心構えが挙げられる。一方的に情報を受け取るよりも、一対一で対話をしたほうが思考は活発になる。だからといって、必ずしも一対一である必要はない。ある人物が自分だけに向けて話していると思い込むこと、そしてそれに対して自分の考えをつむぎ出すことで、仮想的な対話が営まれる。この対話によって受け取る情報の価値がより大きくなるのだ。
これは文章についてもいえる。自分ために書かれた文章ともなれば、自ずと興味がわいてくる。僕の場合、「高校生」に向けて書かれた文章に敏感だ。また、より直接的な意味では、サイト間の言及や馴れ合いなども含む。これは「思い込む」までもなく、まさに自分だけに向けられた情報である。馴れ合いが楽しいのも仕方がない。(ここで「個人がブログによって情報を交わすことで、個人にとっての主観的な情報の価値が高まる」という仮説が思い浮かんだが、ここでは置いておく)