ただ悩み、攻撃から逃げている、だけかも

フリードリッヒ・ニーチェ(著)、適菜収(訳)『キリスト教は邪教です!』──現代語訳『アンチクリスト』p.121-122)
人間が、ものごとの本質を学び、研究し、理解することは悪いことである。人間はわからないことに対して、ただ悩むべきなのだ。しかも、いつも僧侶を必要とするように悩むべきである。医者なんていらない。必要なのは救い主なのである、というわけです。
このような、キリスト教の教えのすべては、頭のてっぺんからつま先まででっちあげられた大ウソです。
人間の「考える力」を壊すのがキリスト教であり、「原因と結果」という科学の基本的な考え方に対する攻撃なのです。

リチャード・ドーキンス(著)、垂水雄二(訳)『悪魔に仕える牧師』p273-275、故ダグラス・アダムズは、いつもながらのすぐれたユーモアを交えて、一九九八年の即席の演説で次のように述べた(わずかに短縮してある)。以下より孫引き)
さて、科学的方法の発明は、みなさんも同意されると確信しているのですが、私たちの身のまわりの世界について考え、調査し、理解し、改変するための、現在存在する最も知的な発想であり、もっとも強力な枠組みであります。そして、それは、いかなる考えも攻撃を受けるという前提の上に立っています。もしそれが攻撃に耐えることができれば、またいつか戦う日までは生き延びることができます。もし攻撃に耐えることができなければ、それは没落していきます。
宗教はそのように機能するように思えません。(中略)「ここには、悪く言うことが許されない一つの考え、ないしは概念がある。けっして許されないのだ。なぜなのか?──許されないから許されないのだ」ということです。
もし誰かが、あなたが賛同したい政党に投票したとすれば、あなたはそのことについて好きなだけ自由に論じることができます。誰もが議論するでしょうが、誰もそれによって憤慨しません。(中略)けれども、何かが誰かの信仰(私はあえて危険を冒して、馬鹿げた信仰と言おう)に関係しているといったことを私が言った瞬間、私たちはみな、おそろしいほど防衛的に、おそろしいほど守備的になって、「いいえ、私たちはそのことを攻撃しているわけではありません。それは馬鹿げた信仰ですが、攻撃はしません。私たちはそれを尊重します」と言うのです。