サイト運営に関して思うことつれづれ。

45分で原稿用紙10枚分の文字を打つこともできるのだなあとわれながら感心している(とはいえ、この文章を推敲するにはあと90分ほどかかると思う)。ぷぎゃー。さいきんタイピングが楽しい。『スランプ克服の法則』にある「ワーキングメモリの鍛え方」についての説明がすごく参考になった。あるいは「ひな型トレーニング」。気に入った文章をドカドカ打ち込んでいます。ついでにfreemindとAmazonApplication使って読書録はじめました。ひょー。『上達──』よりこっちのほうが僕はすきです(とゆわけで、ぜひ『スランプ──』のほうも読んでほしいです、まなめさん。)。「なぜパソコンの前に座ると考えが萎えるのか」「なぜキーボードに手をかけると、ことばでないのか」という疑問が「ワーキングメモリの飽和」というので説明できそうで、こりゃあすげえや、とおもた。あるいは、「ある行動のときある感情になると【行動→感情】、それを繰り返すことで行動とそのある感情が直結する【行動=感情】ようになる」という現象も含んでいるでしょうね。これは『セルフコントロールの心理学』
・100%の壁;情報の分散;ブログのような言及の積み重ねによる情報は、読み方がわかりにくい。どこまでさかのぼればいいかの妥協や、有名ブログの場合、莫大なトラックバックのうち本当に重要な記事はどれかを選んだり。能動的に情報を選んでいって自分なりに再構築できるといえば聞こえがいいが、実際にはそこまでの意識を持ってサイト巡回をしている人は少ないだろうし、玉石混交のものを上手く見繕うのも難しい。それをリンクする立場となればなおさらで、ニュースサイトはひとつのリンクをひとつの情報として提供するが、閲覧者がそこからどこまで情報をさかのぼるかを強制する術はないし、実際にどう閲覧者が動くかを知る術もない。実は読まれていない? このような情報の扱いにくさが課題である。分散を基調とするブログなりの問題かもしれない。ホームページと言うのはまとめを基調にした、更新による肉付けという形。ブログは肉付けというか、なんというか、何か違う。100%の壁について。リンクをクリックされる確率は100%いかということだ。あたりまえである。要するに、リンクをたどる数が多くなるほど、見る人が減る。段を挟んだ情報は読まれにくくなる。読まれない場合、情報価値はゼロだ。平均すると、段を挟んだ情報ほど情報価値が低いと言うことににある。基記事にリンクするか言及した記事にリンクするかと言う選択。これはかなり考えないとわからない。言及記事にリンクした場合、(言及先まで読んだニュースサイター本人にとっては有益なのだが)100%の壁がそびえたつ。閲覧者にとっての情報価値が下がるかもしれない。いわゆる「まとめ」とか「特集」というものには100%の壁がある。趣味のウェブデザインさんで「情報をしめんすんでなく、情報のありかを示す」みたいなことをいってたのに近いと思う。個人的には、トラックバックとかで議論が積み重ねられるのはわずらわしい。再構築(ryというと聞こえがいいが、思考が途切れやすくなる。「九秒」の集中力。
・利己か利他かの問題;娯楽情報の扱い;ここでみて、笑った、はいおもしろいね。これをぜひしっていもらいたい、笑ってもらいたい。そういうリンクする。24時間たてば、もう再びみる気はなくなっている。ゆえに利他、なのか。本当に利他と思っているなら、僕は自分のためにさえサイトを運営している、という信念に反する。ということは、実は僕の信念は弱いまやかし、あるいは、娯楽情報の記録が自分のためになる、の、どちらかだ。ほんというと前者だろうが、まあいい。自分のためになるか。この判断をするために悩んでも仕方がない。24時間たてばおのずとわかる。そのとき、もう一度これをみたい!と思うかどうかだ。ここで考えるのではない。クリックしてみるきになるのだ。クリックしたくないなと思ったら、それはいらない。消せ。
・読まない情報を取り上げること;利己か利他か;読まない情報を取り上げるということは、利他のためだろうか。これは自分ために運営しているという信念のもとにある。いつか僕が読むから、だから残すんだ。あしたには宿題をやるから、だからきょうは怠けるんだ。はあ。これがある程度重い文章なら仕方がないかもしれない。とはいえ、そういうのはたいてい読まない。読むべきである。ここで読むのが結果的に得すると、僕は知っている。授業にまじめに臨んだ方が、結果的に得をすると、僕は知っている。テスト前に勉強をするほうが(点数という俗な評価を別にしても!)得をすると、僕は知っている。そのときに「コード化」や「カテゴライズ」や「ryが重要なのだ。それをするに一番適しているのが読み始めたとき、その情報を知ったときである。なぜなら(?)人間は忘れるからである。授業をまじめるにうけることの(単なる時間の有効活用という利点を別にしても!)意義もここにある。それが重い文章で、後回しにするにしても、「コード化」「カテゴry」「ryなどをその場でおこなうのは有意義である。こればっかりは、気合か? まあ、少しくらいなら後回しにしてもいい。そうやって、後日じっくりと読むというのも、たまには成功している。では。さて。娯楽情報の場合はどうか。たとえば「──まとめサイト」の類だ。ぶっちゃけ、とても読めたものぢゃない。多くのニュースサイターは子の類を娯楽情報を読まずに紹介していると思う。とりあえずリンクすることは、基本的に利他である。僕はれいの信念のもとに、とりあえずリンクすることは、どうか。利己であるともいえる。のちのち楽しむためにリンクするのだ。だが、どうか。まあ実際、そのうち読みたくなるかもしれない。これは判断が非情に難しい。24時間置いても、わからに。だって読んでいないからだ。まえがきとかアバウトとか概要とかを熟読するのがよいか。それでわかるのだろうか。それにしても、いわゆるネタというやつはあまり代替がない。小説ならば書籍がよいが、他媒体で同じものはあまりない、ウェブのネタの場合(電車男とか、書籍化の動きを除いて)。これに対するこだわりかもしれない、単なる。限定品への魅力。ただ代替と言うが、それぞれのネタも、もうぶっちゃけ、にたりよったりだ。姉がどう、妹がこう、おなさなじみがああ、みたいな。しかしふんぎりがつかぬ。この基には、もし暇なときの暇つぶし、という活路を思い浮かぶ。どうも非現実的だ。おもしろくないもので暇つぶしができるか。ゆえに、「まえがきとかアバウトとか概要とかを熟読する」を実践して、切る。では、さて。短いネタの場合はどうか。これは実際、利他のおもむきがつよい。というより、僕が楽しんだんだから、ここを見てくれている人にも教えてあげようと言う感じた。というより、というより、ふつうに利他だが。実際、残す意義は薄い。これはまあ仕方ない。適当にリンクすればいい。あとで、これは今後一生みないな、と思えば、消せばいい。そこまで利他に徹しない。
・そのままの形で情報を残すこと;過去をかきまぜること;残す残さないといったが、僕の性格上、いちどみたものはどんなかたちであれ残しておきたいと思ってしまう。実際、あのいつかみた文章はどこにあったのか、見出しやないようははっきりと覚えているのに、grep検索してもみつからない、じゃあ残していなかったんだ!とくやむことがある。僕は軟弱者なので(?)、そういうのは根にもつ。ちょー気持ち悪い。残しておきたいです。残すときに形をかえることは問題ない。だがここに(閲覧者にとってはそのままの形でない過去ログはわかりにくいという利他における問題を別にして)問題がある。過去をかぎまぜようとすると、どうしても、もう残したくないな、残す必要はないな、と思う情報があらわれることだ。でもそういうのでも、残していなかったんだ!と悔やむ元凶になる恐れがある。ゆえに、一方ではそのままで、他方ではかきまぜた(自分なりにマッチする感じに)情報を残すというのが有効である。このときカテゴリをどうするか、日々の管理において混ぜと分けのバランスをどうとるか、という問題がある。まあ、それは(悩むとかでなく、理屈で)考えればどうにか効率化できるだろう。
・カテゴリの葛藤;情報、学習、文化、ネタに分けている。ネタだけカタカナでじづらが悪い。プロポーショナル・フォントで表示するとちょttガタっときて、やはりじづらがわるい。物語なんて名づけていもいいけど、誇張にすぎる。ここは妥協だ。長年(え?)の運営からこの四つに情報を分けるようになった。大げさに言えば、僕の関心ごとはこの四つに分類できると言うことだ。分類はそれ自体知的生産である、みたいな、立花隆だかがいってた。分けられると言うことに、自分でもすっきりしていた。ところが、さいきんはこの分類に違和を感じるようになった。たとえば社会という分野を分類しにくい。文化カテゴリにはいっているが、萌え云々と、なんとか権うんぬんをおなじ括りにするのは、なにか違うきがする。また、情報のサイト論化である。もうサイト論しかない。昔はこんなじゃなかったよ? なんか、こころとは、みたいな?そんなんあったような気がする。あんま覚えてないけれど。プログレジスタンスの天野さんが「琴線に触れまくり」なんて評してくれたカテゴリが、単なるサイト論カテゴリのはずはない。本来情報カテゴリにはいるべきなにかが、学習カテゴリにながれているのではないだろうか。また、文化とネタの分類もあいまいである。社会系の話題がある一方、ネタだか文化論だかわからないような文章が文化カテとネタカテのあいだをころころしている。マンガ論は文化にはいるが、マンガそのものはネタにはいる。また、学習カテの啓発けいの情報も、ネタカテのすぐれた文章と差が微妙だ。「個人「ニュース」サイトという葛藤のなかで」に対する一行コメントで、「カテゴリは外部からくるもの」というような発言があった。じつに。カテゴリを四つに分けた、これは実にすばらしい知的分類だ!と自分で評してしまい、いまでは葛藤のなかである。もちろん分類なんてのはどんどんかわっていくべきだ。その点で、知的生産なのだろう。分類できたことが作品なのではない。分類してく思慮の姿勢が、作品につながるのだ。ゆえに、いまのカテゴリの壁をいちどとっぱらってみるのもよい。いまの【これ】のようなカテゴリづけ(これは「タグ」というのか?)はそのまま続けてみたい。これはこれで好きだ。
・孫引きの情報劣化;サイト紹介とコンテンツ紹介;きょうはこれらの記事をリンクします、のと、きょうはこれらのサイトから記事を集めました、の違い;(つづく)