克服は忘れることにほかならないと某人語りき(カタリキ?)。人生の意味を知った人がそれを説明できないのは、それが説明できないものであると知るからだと某人カタリキ。

「読ませる文章」があるなら「読ませない文章」もありじゃないか。なるほど、ちかごろは、そういうことを考えて書いています。



正当化と信念のせめぎあいのなかを駆け抜ける。なんてのは言葉が先走りしすぎたおろかな物書きだ。『のだめ』を読んでクラシックに興味わいたり「マリオピアノ」をみてさらに高揚しInkBottleさんでしったSnow Forestさんの『偽りの空』を聴いて芸術の道を切り捨てた自分に後悔することもないのは不思議であるさ。僕が演奏できるのはこのキーボードだけだ。メロディはでない。そこから生まれるなにかにメロディが込められている。僕は込めることができる。どうだか。はあ。それにしてもタイプミスが多いのがわずらわしい。絶対に、僕の思考の方が優れている! ワーキングメモリの仮説をもとにしたら、まあ、そうともいいきれない。ありったけの部分を自動化する。とはいえ、自動化してはいけないようなものもあると思う。忘れてならないものがある。「克服」が嫌いだ。克服は忘れることにほかならないと某人語りき(カタリキ?)。人生の意味を知った人がそれを説明できないのは、それが説明できないものであると知ったからだと某人カタリキ。某人というのは知識のあいまいさをごまかすためだ。なにも問題ない。悟るとは、悟りという概念を忘れることだ。僕がなにかの苦難を克服したとして、それがほかの僕のような──(これはいままにも書いたからいいや)。たとえば「神」や「NHKの陰謀」による苦難の場合、「克服」することは愚かだ。そういうものに苦しむ人を救いたいと思う同情(?)。本題に入るまえに500字を使った。フォー。本題はなにか。大学進学についてどう思うか。それよりも夏休みの宿題をすべきだ! ゆえにサボっている(なんという論法だ)。正当化と信念のせめぎあい。僕は、大学はどこに進学しようとも、それはたいして重要なことではないと思う。好きか嫌いか。僕がいますきなことはなにか。一番は、マンガを読むことだ。ここ数日は、Windows98のカスタマイズだ。あとオタク系文化やウェブ文化についても好きだ。哲学者にも興味をもちはじめている(哲学はわからない!)。ただ、それらのことを大学で学ぼうとは思わない。大学に進学するとは、学問の場に所属することであると思う。設備、教官、発言力。Simpleさんとこで、文系・理系を分けたのはカネのためだ、と読んだ。なら、理系がいい。だから僕は理系を選択している。あー、だめだだめだ。曲のリズムの先に思考が進んでいないじゃないか。絶対に、優れている!って、あほな。ゆえに、文系を選ばない。あと、文系の勉強というのは、僕はできる気がする。僕は理系教科の勉強が嫌いだ。手を動かさないと定着しないことが多すぎる。というか、僕はまだそのレベルだ。僕は物理を独学で学ばないと思う。生物と物理の選択があったが、学ぶ気がある方は、生物だった。でも、どっちでもよかった。物理の授業とらなきゃ物理の勉強、絶対しないと知ってた。どこに進学しようと、それは重要でない、というのは語弊がある。自分の好きな分野に進学することにこだわらないぞう、と思う。なにぞやの文章で読んだ(passion for the futureさんの書評?)。好きなことを仕事にするのでない、できることを仕事にするのだ。大学進学において思うに、好きなことを学ばされるのでない、できないができるべきことを学ばされるのだ。もちろん大学は学ばされるための場でなく学ぶための場であると知ってる。だが、学ばされるのも事実だろう。僕は自分に重荷を課したりプレッシャーを与えたりして成功したためしがない! ゆえにこの考えはまちがっているかもしれない。これはこれからの生活次第である。ところで、僕のなかでは「興味がある」ということには、おおきく二つの分類ができる。だが説明はできない。これは明らかにべつの「興味である」と感じるのだ。たとえば、「ウェブ文化に興味がある」と「複雑系のシミュレーションに興味がある」だと全然違う。「複雑系」と聞くと、「システム」や「創発」などを連想してわくわくする。ところが「気象」や「経済」などの単語をみると萎える。実は僕は、複雑系にこれから興味をもたない、と予測できる。物理学や数学なら、なおさらだ。知らないまま選らんじまえばいいぢゃないかと思う。僕は「学際」とかいうことばが好きだが、実はそれについてなにも知ろうとしていない。知りたいところだけ知っている。これを知ると興味を失うであろう、と予測できるものからは目を背ける。というか、何を書くつもりだったのかわすれた。それにても、「興味」の二分類は本当に説明できない。抽象できない。いまいくばくか思惟にふけったところ、いちおう答えが出た。いくばくかの思惟のくせに! こう言えるかもしれない。「知りたいことを知る楽しみ」と「知りたくないことを知る楽しみ」である。いま僕は知りたくないことを知ろうとしてないし、あまつさえその楽しみなど知らぬでござる。ただ、このままぢゃ受験に受からない亜! だから(接続詞としてクソだがごまかしなさい)、どちらでもいいんだ。もうほんと、どちらでもいいんだ。悩まなくていいですよ、そんなことで。僕は「知りたくないことを知る」というのが運命のうえにあるとシッテイル。それに楽しみがあるとシッテイル。それが有意義であるとシッテイル。選ぶよしもなく選ばれているんですよ。僕がそれを切り捨てるわけないと僕はシッテイルんデスよ。シッテイルの意味なんてしらないけど。ああ、シッテイルについてはメモがある。「努力さえすれば誰にも負けないと、多くの人は知っている。多くの人がそれを知っていることを、多くの人は知っている。ゆえに、実はその気休めが疑わしいということを、多くの人は知っている。逆に、努力することで抜き出ることができると、多くの人が知っている。一部の人たちは、これを振り出しに戻ったと判断し、ほかの一部の人たちは、ここで努力すべきだということを知る。このように、人は驚くべきほど多くのことを知っている。もとからみな知っているのだから、知っていることは価値がないように思える。知っているとはどういうことか、知っているだけでよいのか、などについて考えることが重要となる。そういうことを、知っている。」(2005-08-03)シッテイルのじゃ主張にならない。かー。どうしようもない。えーと、何を書くか忘れた。引用のたぐいは書き終わったあとでするにかぎる。そのための引用なんだにょ。僕の根本には「若いくせに夢なんてもつなよ」という考えに対する納得がある。説明できねえし、根拠にも欠ける。ところで、哲学系の学部には絶対にすすまないつもりであるよ。ツチケンは不動産屋の副業でも哲学はできるといってた。科学したい(科学するにはカネがいる)。哲学も科学だけど……。科学とはなんぞや。思うに、科学は正しい。偉い科学者(ドーキンスとか)が「正しい」っっていってるから、たぶん正しい。攻撃されるがゆえに正しい。収集がつかない。というか、さいきんは収拾をつけるために書いているんぢゃない。これをなんとよぼう? 「ウォッシュ」ぢゃ地味だ! あの……ファーレントゥーガラクタイナの最強魔法ってなんだけっけ? あんなイメージ。よくわからんが(2005-08-09)「受験とは何か。課題です。自分からやろうとするものでなく、やるべきであるという理由で外部から貸されたことです。有利であるためにはそれをこなす必要があり、拒んでも不利になるだけであるので、拒む理由がないためその課題をこなします。自分から望むのでなく利益があり形式的におこなわれているある以上、深い追求は無意味です。ゆえに疑問を投げかけず、自分から望む事柄に悪影響がでない適度に課題をこなします。その過程であらかじめ設定された利益以外にも、自分から望む事柄に活きる利益をえることもできます。だから、課題から学ぶことは大切ですが、そのせいで自分から望む事柄のさまたげになるような影響は受けません。」なんか自己啓発CDみたいだ。宿題、とりわけ物理とか数学は、知りたくないが知るべきであるとシッテイてそこに楽しみがあるとシッテイルので選択の余地なく楽しむに違いないことをシッテイル。もし、おまえはそんなことをシッテイないのだ! といわれても、どうしょーもない。



という夢をみた。