いろいろ

てゆか転載

『ピンポン』第三巻p.130)

続けろ 卓球。

血ヘド吐くまで走り込め。
血便出すまで素振りしろ。

今よかちったァ楽になんよ…
ヒーロー。

荻原規子『樹上のゆりかご』p.48)

 加藤クンはビニールの袋を破きながら少し考えた。
「学校に講堂があったころ、校内で合唱祭をやっていたときから、もう代々、合唱祭の昼は実行委員が用意することになっていたってさ。これって、アレじゃないかな。『同じ釜の飯』?」
 夢乃が笑い、私が笑ったのは、彼が死語みたいな慣用句を使ったせいだが、意味するところはばくぜんとわかるような気がした。合唱祭の団結に必要な、一つの要素だと言いたいのだろう。
 でも、このパンがなかったら、どれほどの割合で結束がゆるむと言うのだろう。それもけっこうナンセンスかもしれない。
 パイプイスの背にもたれて、夢乃が言った。
「手がたりなくて、臨時の応援をたのみこむくらいなら、本当は活動を縮小するべきなんだよ。今このときの委員会規模でできることをやるように、柔軟にならなくちゃ」
「うーん……そうなんだけどね。正論なだけど……やめたら、きっと、二度ともとにはもどらないよ。大変なほうのベクトルには」

市川伸一考えることの科学』p.183-186)

 ところが、前述のように、かえって見下されたような不快感を味わう人もいるのは残念なことである。その違いがどこから来るのかは推測するしかないが、「間違い」ということを、自分を向上させるための情報としてとらえるか、してはいけないことで恥をかかされたものととらえるか、という人間観、学習観の違いがあるのではないだろうか。これは、不快な人をますます不快にさせてしまう解釈かもしれない。それでもあえて言っておきたいと思うのは、エラーやバイアスの研究を、むしろ私たちの認知や行動の改善の可能性を与える「前向きの研究」としてとらえてほしいからである。
 これは、「人間はもともと日常生活では合理的で賢いものだ」という人間観に対する、私の部分的反論でもある。私自身の考え方は、より折衷的で、現実に即したものである。つまり、人間は様々な状況と能力的な制約の中で、「だいたいにおいて」うまくやっていくための思考のしかたをとる。ただし、それとひきかえに、大きな考え違いをしてしまうこともあるということだ。ところが、ここから先が強調したい点なのだが、人間はそうした自分の思考のしかたを自覚し、いっそう洗練された適応的な思考のしかたを身につけることができるということである。論理学も、確率論も、心理学の知見も、思考の自覚と改善のための道具であり情報であるとみなすことができる。
(中略)人間の推論の素朴な姿をひたすら肯定的に見ることが、人間の合理性に対する信頼の証なのではない。人間は自らの認知の内面を直視して改善していくことのできる存在であると考えることこそ、人間の合理性への信頼なのではないだろうか。