「ひととのつながり」があればアクセスはいらない

  • ひととのつながりがあればアクセスはいらない。
  • なぜ「ひととのつながり」を求めるのか?
    • 互いの関心によってひちびかれる関係が魅惑だからだ。
    • 「ひととのつながり」は影響力を意味するからだ。
  • 「ひととのつながり」など幻想ではないか?
    • ひとはわかりあえないという点で、あらゆる交流は幻想的である。
    • その程度には幻想的だが、それを幻想とよぶことはない。
  • それはアクセス富者の皮肉や我侭ではないか?
    • アクセスが「ひととのつながり」をつくるのではない。
    • ごく狭い領域におけるはたらきかけによって生じる。
    • 喜ばせてもらえ。それより先に、喜ばせろ。



わたくしはサイト運営においてこう思う。

  • ひととのつながりがあればアクセスはいらない。

この主張には不自然なところがたくさんある。おおまかにふたつ挙げよう。

  1. 「ひととのつながり」とはいったい何であるか。そんな幻想的な魅惑があれば、アクセスごときいらなくても当然ではないか。あるいは、そんなものはない。
  2. アクセスを得られたからこそ「ひととのつながり」を得られるのではないか。「アクセスはいらない」というのは「おかしがあるからパンはいらない」というような皮肉や我侭ではないか。

ひとつめ、「ひととのつながり」への疑念について、わたくしの思いを述べよう。まず、ある。たしかに魅惑だし、しかも幻想でない。それはどういう感情か。だれかが、わたくしに言及した、という感触である。この「わたくし」というのは、また「言及」というのはとても広い意味をもつ。わたくしの発言、わたくしのリンク、わたくしの変化に対する、だれかの発言、だれかのリンク、だれかの変化である。きっと彼(彼女)は、わたくしに向けてそれをしている。絶対にそうだ。
それは盲信だ、と思われるだろう。かもしれない。けれど、それを盲信とよぶのなら、ひとにとって確かな交流などありえない。ひとは感情や思考を他人に伝えることはできない。感情や思考は、文字や彩りや音色や圧力や電波ではないからだ*1。それらでない何かをひとに伝えることは原理的に不可能である。その意味で、わたくしがウェブにおいて感じる「ひととのつながり」は、いわゆる「リアル」におけるそれと同等である。そういう程度に幻想的である、し、それは幻想でないとわたくしは思う。
ふたつめ、「ひととのつながり」を求めるのはアクセス富者の皮肉ではないか、という疑念について。まず、わたくしはアクセス富者ではない。と言い切る自信はない。ので、別の視点から述べよう。
「ひととのつながり」はとても狭い領域において感じるものである。きみとぼく、だ。それは断じてセカイではない*2。広すぎるウェブのなかで、ただひとりとの接点をもてば実感できるものである。
「だが、その接点をもつためにはアクセスが有効だ。実際、貴様が接点をもてたのも、アクセスの多さが出会いの可能性を高めたからだろう」と思われるだろう。貴様というのはひどい。さて、しかしだな、ひととのつながりにアクセスは関係ない。アクセスというのは、相手から自分への接触を意味する。たしかに、その数が多いほど「つながり」まで至る数も増す。しかし、微々たるものだ。だれが好き好んで、わたくしに接触し、わたくしのことを好きになるというのか。「つながり」はそうやってつくるのではない。
わたくしは、わたくしを誉めてくれるひとが好きである。正確には、わたくしを誉めてくれたひとを好きになる。わたくしはたいてい、それから彼(彼女)のことを誉めたくなる。わたくしを誉めてくださったことに対して誉めるのではない。それ以外に、どうしてもわたくしが誉めたくなるようなものを、彼(彼女)はもっているのだ。不思議だ、が、わたくしはわたくしのことが好きである、と考えると納得がいく。わたくしも、彼(彼女)も、わたくしのことが好きなのだ。という点で共通している。「わたくしに対する彼(彼女)」において成り立つことは、「彼(彼女)に対するわたくし」においても成り立ちそうである。
何が言いたいのか。つながりたいと思った相手にはたらきかければ、つながりをつくれる。あなたが関心をもつほどの相手が、あなたに対して関心をもたないはずがないだろうから*3。したがって、ひととのつながりとアクセスに相関関係はない。王道は、まずつながりたいと思った相手を自力(運まかせ)でみつけること。あとは相手の示す「リンク」「アンテナ」「ブックマーク(SBM)」「ニュース」「ネタ元」「言及」「コメント」「トラックバック」などを辿れば夢が広がりんぐである。ここがウェブのすばらしいところだ。

以上の説明から、「ひととのつながりがあればアクセスはいらない」というわたくしの意見に納得いただけるかたが、およそ数人は増えたと思う。その一方で、はじめは納得していたが、この説明のせいで違和感を覚えた、というひとが数十人は増えたと思う。しなければよかった……。

さて、第二部である。おどろきである。第二部があるなど、わたくしも知らなかった。いままでのは第一部だったんですね。
というより、言い忘れていた根本についてである。なぜ、わたくしは「ひととのつながり」を大切に思うのか。
わたくしは怠惰である。主張したいことがある。しかし主張するのが面倒だ、と平気で思ってやることができる。わたくしの三行の発言で(しかもそれを正しいと盲信し)、このウェブをうごかせたらいいのに、と思う。そういったとき、ひととのつながりが重要になってくる。
ちょっとすいません。わたくしとつながりをもつひとたちを、いま思い起こします。はい、彼らです。わたくしの幻想的な判断によりますと、彼らはわたくしとつながりをもっている。だが幻想ではない。で、彼らなのですか、みなさんとてもすてきです。すごいな、と思います。彼らなら、わたくしの怠惰な主張に対して「言及」してくれるのではないか!
「言及」は先ほども述べましたが、「わたくし」に対して「発言」「リンク」「変化」などをすることです。でもって、「『わたくし』に対して」というのもまた、おそろしくあいまいです。わたくしは彼らの「言及」について、ほんのすこしでもそれらしく感じれば「これは『わたくし』に対しするものだな」と決めつけます。この幻想的な決めつけが本当に「言及」だとしたら、わたくし、ものすごい影響力をもっています。かなりわたくし、このウェブをうごかしているのではないかな、と思います。
これが「アクセスはいらない」根拠です。アクセスなどなくても、わたくし、ものすごい影響力! これもわたくしのもつ「ひととのつながり」があるからこそ。彼らが、すてきだからこそ。*4
わたくしの示すほんのささいな「わたくし」が、ひとにとってすこしでも価値あるものであるならば、きっとすてきな彼らを通してこのウェブに広がっていきます。必要であれば、このウェブをうごかすでしょう。わたくし、そういう彼らにとても期待しています。そういう彼らとつながるわたくし自身にも、とても期待しています。何かやってくれるはず。わたくしはすごいのだ。

*1:ただし、わたくしの感情や思考は電波かもしれない。申し訳ない。

*2:言ってみたかっただけで意味はない。

*3:これは「わたくしはわたくしのことが好きである」と断言できるような恥ずかしいひとにしか納得されないかもしれない。だが関心というのは、作為できない、そのひとの根本を占める何かであると思う。自信があろうがなかろうが、そういう関心によってつながりが生じるのは大いに考えられる。

*4:「彼ら」がいったい何者であるかを濁してしまうのは、恥ずかしいのと、やはりすこし不安であるからです。もしこの場で告白してしまったら、彼らのうちの何人かは「きをふしさん、何言ってるんですか」と冷たく反応なさるかもしれません。そういう程度に幻想的なのは、やはり宿命でありましょう。それでもしかし申し訳ありませんが、わたくしは彼らとつながりをもつと信じます。それがどうしようもなく幻想であるなら、それに足る人物になろうではありませんか。