野村美月『“文学少女”と穢名の天使』

p.164
追いかけて尋ねたい気持ちではち切れそうだった。けれど先生がやってきて、ぼくも自分の席に着いた。

行けよ! って思ってしまう。しかしこの環境管理は閉鎖された道徳空間としての学校を強く示している。受験生である遠子先輩をはばかり、彼女が関与することを避けるコノハくん。学校という日常の檻にみずからを閉じ込める毬谷先生。学校空間という制約のなかで、すべてのことは緩く進んでいく。内と外で、先生は「ひと」が変わったのか。変わったのはそれを取り巻くもの。この閉鎖系に放たれた異分子が臣くん。ま、そんなこじつけはどうでもいいわな。
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コノハとななせさんが手をつないでいるシーン(p.207)がよすぎる。妄想と妄覚と妄触があふれる(アブナイ)。
このすこしまえの場面で、コノハくんはななせさんに自身の傷を投影する。ななせたん*1に対する同情がわき起こる一方で、彼はごく個人的な感傷を想起する。唐突に「きみ」(p.198)という二人称で表される、美羽に対する執着心は、目の前の状況と自意識のあいだを倒錯しているようでおもしろい。
自身と美羽における「二人で手を握りあって過ごす、おだやかであたりまえの日常」(p.198)を惜しみ、そのつらさを夕歌とななせのあいだに見出す。手を握りあうという風景がそのあとコノハとななせのあいだで発生するのはおもしろい。それは、コノハと美羽の関係、および夕歌とななせの関係に、何らかのかたちで作用することを予感させるから。くだけていえば、コノハとななせがくっついたら美羽はどうなるん。
それはさておき、コノハは感傷そのものに加えて自身の弱さをななせに投影する。それは彼の彼女に対する思いやりだ。それは彼の彼に対する擁護だ。そうやって慎重に探るようにななせに尋ねる。真実を知りたいと答えるななせは、弱さであるコノハと対比的に、強さを示している。
ここからコノハの自己欺瞞が発生している。コノハは「強いものを守る」ことで自身に強さを見出している。しかし、それは根本にある自身の弱さをくつがえすものではない。思い切っていえば、このコノハは女の子を助けるという状況に酔って、自分を奮い立たせているだけではないか。ま、そういう見方もあるってだけで、べつに問題があるわけじゃない。だって、ななせ、コノハに惚れてんだもん(笑)
コノハに文句をつけたいわけではない。むしろ立派だと思う。自己欺瞞っていう言い方が悪いだけで、これだってある種の強さにはちがいないんだから。でも危なっかしい。弱さを薄い膜でおおっているだけのようにみえるコノハに、もろくはかない繊細さをみてしまう。
だから、手をつなぐシーンがどきどきする。ななせに真実を伝えるコノハ。弱いコノハが強いななせを真実という刃物で責める構図。ああ、なんて美しいんだろう……。だれよりも弱いコノハだからこそ、ななせの弱さをかばってあげられる。傷つけざるをえない状況のなかで、だれよりも「傷つけたくない」と思っているのが、コノハ自身なんだ。他者を傷つけ、自身を傷つけ、他者を守り、自身を守る。内と外の入り乱れたコノハのこころを思うとぞくぞくする。
ななせの強さに対する連続的な突き崩し、閾値を越えたときにこぼれ落ちるななせの弱さの欠片、それをひろいあげるコノハのフィードバックが、手のつながりを通して強烈に比喩されている。
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もうひとつ、コノハが他者に投影を試みるシーンがある。クライマックスのあたり、コノハから毬谷先生に対して。これがかなり象徴的。というのも、投影が失敗するから。他者との断絶がかなり鮮明に浮き上がる。それは美羽との断絶をもコノハに想起させる。コノハの自己中が木っ端微塵になるところ。無力なコノハに代わってななせが場を動かす。ああ、ななせは強い子。
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(p.227)
透子先輩が薄い胸をそらし、きっぱり答える。
「わたしは、ご覧のとおりの“文学少女”よ」

(^ω^)

*1:タイポだけど、直さない。