さとうまきこ『ハッピーバースデー』

生理! 生理好きの僕にはたまらないですねあははははは! うそです!うそ!あはははは!
女の子に神秘を見出す僕は生理に対する象徴的な意味に悩まされることが多々ありますが、生理なんてなんでもねえよって『ツ、イ、ラ、ク』のはじめのほう(しか読んでないです)に書いてあったので安心したとかどうでもいいででででです。
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ちょっとおれの脳が偏ってるのかもしらんが、ここでも強さと弱さの倒錯、および自己欺瞞がうかがえておもしろい。つーかひとってそんなもんな。
ヤーヤンの強さに憧れるユカリは、ヤーヤンが病気で倒れたことをチャンスだと思う。ヤーヤンの強さに近づくために彼女の弱さを自分に引きつけるという自意識の暴走。暴走、なんか違うな。
まわりから排斥されるヤーヤンに弱さが見え隠れしてくると、ユカリは彼女に対してべつの観点から憧れをいだく。「ヤーヤンは絶対、泣いたりしない。あたしみたいに、泣いたりするもんか」(p.100)という感情は、さきのユカリの立場とは食い違っている。強さをみれば弱さを、弱さをみせれば強さを願うような、ヤーヤンに対するユカリの不安定な羨望が、ユカリの閉じた自意識を示していますね。
沈黙刑のあたりでユカリの心境に変化がおとずれている。ヤーヤンの強さを現実のものと認めたうえで、そのことに救いを感じ、けれど「そう考えている自分に気がついた時、ユカリはつくづく自分が情けなくなった」(p.122)。これはユカリがヤーヤンとの、つまり個と個との「関係」を意識し始めたことを表している。ちょっとだけ、ユカリのこころが複雑で大人になっている、よね。
ヤーヤンに対するユカリの判断はどんどん深みを増していく。ヤーヤンを「自己中心的」「強い」(p.138)と、長短の両側面から認識し、さらに「おたがいに努力すれば」という観点から折衷を試みる。これは自己と他者を区別し、そこに相対的な視点を加えなければ出てこない発想だ。ユカリのこころの成長には目を見張るものがある。
この変化を踏まえると、ユカリのこころを鋭く突くヤーヤンからのメッセージは見事というほかない。ヤーヤン自身が加害と被害の両面を体験し、そのことから得た相対的な視点が、ユカリにとっての救いとなって伝わる。しかし相対的思考とはしょせん仮想的なもので、ユカリの願いは妄想に過ぎないことも事実。それはユカリ自身も自覚している。それでもなお「いまのは、あたしのことだ。あたしのことだ」(p.162)と感動を取り繕う姿勢に、合理性だけではたどり着けないこころの純粋を僕はみた。これは愚かなことだろうか。
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以上のことともすこし関わるのだけれど、この小説では「思いこみ」や「想定」というのがわりと強くはたらいている。「もしAだったらBするのに」という想定で「勇気」の欠点を紛らわしたり、「わたしはこうだけど、あのひとはきっとああだ」という思いこみでものごとを落ち着けたり。これも、だれもが日々体感していることだろうなあ。痛い。
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上の場面、ヤーヤンの伝言をクボセンが伝えるとこなんだけど、シチュがおれに直撃w 閉鎖道徳空間としての学校が発動! これは時間割という学校の枠組みの崩壊と見せかけて、それすらを許容する構造をもっている学校空間が、脱日常的な指導力を引き出すという仕組みですね! いやー、すばらしい。