本読み・趣味

小説を読む。文学としての背景にはあまり知識がない。関心がないわけではないが、あまり気にしていない。物語に興奮するだけでもいい。頭が悪いとは思わない。ひとのひとに対する作用に、または個人の閉じた内面に、注目するときもある。思想や主張を読み取れれば受けとめる。歴史にも意義はある。文化としてどうひとを形成してきたか。幻想ではないはず。
読書という言葉は指向性をまるでほのめかさない。ゆえに趣味として挙げるにはふさわしくない。料理の好きなひとが料理の本を楽しんだとして、彼女(←偏見)の趣味を読書いってよいものか。どちらともいえる、し、何もいえない。趣味に指向性が必要か、と問うこともできる。物としての本に魅力はある。そのケはわりともっている。その意味で本が趣味だと述べることで得られるメリットも少ないだろうが。
僕は本を読むことがあまり好きではない。これは本当におもしろいのだろうか、おもしろいと思っているのだろうか、ということをしばしば悩む。読書は根本的あるいは本能的にはあまりおもしろいことではないと思っている。読むのも遅い。だからこそ自覚的になれるのだと自覚している。
読書は勉強なのか? 読書は偉いのか? 本読みはふつう、そんなことないよ、と答える。僕は違う。読書とはつらく難しくつまらなく有意義で立派なものだと思っている。楽しいから読むのではない。読みたくてたまらないから読むのではない。読むべきだから読むのだ。
しかし困る。それなら、なぜ僕は読む? つらいのなら、読まなければよい。少なくとも、読みたくない、と悩む。そうならない以上、やはり僕は読書に対して楽しい、好き、したい、という欲求をいだいているのだろうか。それは、ただ、ちょっとひねくれた本読みだということ、それだけ。
読書にもいろいろある。ある局面で、さきに述べたことは正しい。読書に対して消極的に向き合うことで踏み込める域もある。それは本読みであるか否かに関わらず、ただその者のこころがけに依る。「趣味は読書です」という言葉にコンプレックスがあるのかもしれない。これは、僕が本にどれだけこころを許すかという問題なのだろう。
なぜ本を読むのか。僕にはこう答えることしかできない。本を読むこと以外に、あまりすることがなかったからだ。