文量は意味のからだ

フューチャリスト宣言』を再読しようと思った。さきにつけた付箋が明らかに邪魔なのですべて取った。数えたら51枚だった。4ページに1枚貼っていたのか(笑)
もともと付箋は言及ポイントを忘れない(探すのに手間取らない)ためのもので、また日記として(読んでもらうために)書くレビューには量的な限度があることから、目印をつけるのは数カ所ほどで十分なのだが、この本は勢いがあって付箋をぺろぺろと貼り倒してしまった。読み直すときには可読性を妨げるものでしかない。
付箋を貼りすぎた理由のひとつしては、重要なことが何度も書いてあるということである。こういった場合、重要なのは同じ意味を語る「それぞれの言葉」を拾い集めることではない。それぞれの言葉が語る「同じ意味」を自分のなかにかたち取っていくことだ。その趣旨を目指す限りで、部分を取りこぼすことに対する慎重を要しない。
読めていないから、本当の理解はできていないだろうなあ、という心配は不適当だ。
思考を他者に一致させることを本当の理解とよぶのなら、もちろん読まなければ理解を達成できない。それは価値を他者に置くことが前提されている。客観性や権威を求めるなら、その方向性は正しい。
他者の意図から外れたかたちで思考を取り入れると、情報伝達の齟齬とかディスコミュニケーションとかみなされる*1。それを自覚的に試みるのを客観性や権威に対する暴力だというのは、べつに過言とは思わない。でも、それは自分の判断に対する価値が前提されているのだ、というポジティブな側面は見失ってほしくない。
自分を誇るってことはバカと紙一重なんだよなー。さいきんよく思います。

*1:でも、聞いて