新井素子『おしまいの日』
物語をつくることは作用因子を問題構造のなかに閉じ込めることを前提するのだろうか、と心苦しくなった。会社人の忙しさという現代的な問題を取り上げながらも、この小説において、問題の解決はありえない。閉じた問題構造のなかでジレンマに立ち向かっても、結果、妥協し、諦めるほかない。その意味で、どうしようもなく「春さんは、今日も帰ってこない」。
「おしまいの日」とは問題構造の変革(あるいは崩壊)のことだ。明かされない部分の多い、この物語の結末は、明文化することが不可能なブレイクスルーの生じた結果だと思う。視点を変えれば、作用因子の追加によってジレンマが強化・複雑化し、妥協と諦念では収まらない問題構造が、三津子という作用因子をスポイルした。問題は解決されたのでなく、ただその枠組みごと崩れ落ちた。*1
- 作者: 新井素子
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1995/04
- メディア: 文庫
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その他、おもしろかったところ。
- 「異常」に対する三津子の絶対的な嗅覚(p.48)
- 「ナルニア」を引き合いに、意識しないということを意識的に試みようとしている(p.148)
- 「おかしさ」と「まともさ」の倒錯(このへんはちゃんと読めなかった……)。
- 「白い虫」に対するSFちっくな妄想。
- 「莫大な情報はひとによってどういう意味をもつか」という Google 的テーマ。
- 要素と役割の一対一。層構造。システムの形式としてはそれほど複雑ではない。
- それがある種、「白い虫」という生き物的な名称に対するメリハリになっている。
- そう考えると情報処理モデルによる人間心理の類推はわりと直感的かもしれない。
*1:あまりにも説明が浅いと自覚する。話の流れを追ってもうちょっとこじつけることもできそうなのですが、ずいぶんと軽快に読めてしまったので、いまはこの程度が限界です。小説の読み方がずいぶん変わってきたなあ……。