わたしとあなたの文脈争奪戦

馴れ合いって専門用語を駆使した学術論文に近いものがある。言葉は概念を表すが、その概念がお互いに通じていなければ言葉の意味がしぼむ。馴れ合いの場合、概念っていうのは、あのときこういうことがあったね、とか、おれってこういうやつだけどさ、みたいなね。しらねーよ。的な。でもわかるひとは、あははは、あった、あった、とか、ですよねーw、みたいな。なに盛り上がっちゃってんの。と。
もちろんウェブに何を書くかは自由なわけ。けれど伝わらないよりかは伝わったほうがうれしい。それは可能性だから。伝えるために書きたいわけではないけれど、わずかな工夫によって発生するメリットが上昇するなら、しかもそれは等比級数的、かどうかはわからないけれど、おそらく一次関数的な相関関係では捉えきれないものだから、淡くも期待をいだいてしまう。
つまり、文脈を共有してこその日記だと思っている。それは馴れ合いの狩り場を拡大することに過ぎないのかもしれない、単なる程度の差。しかし文脈を環境に対する依存から切り離すことは、大きな意義をもつ。それはわたしの精神性が自由を勝ち取るということなのだから。
そういうわけで、この日記に目的というものを定めるなら、わたしを取り巻く文脈を、ごと、あなたに伝えるということだ。しかし、文脈を伝えるとはどういう意味か。文脈とはかたちではない。ならば、わたしはあなたに文脈を期待することしかできない。たとえば「専門用語」を慎み、あなたのつくりだす文脈がわたしから逸脱しないように工夫する。
文脈はわたしに依存する。同様に、あなたにも依存する。もっとも信じやすいのは自身に依存する文脈である。現実的に、あなたがあなた以外をあなたの文脈において理解することは避けられない。
実際、僕もそのようにひとの言葉を理解する。なぜなら、それが意味を捉える際に最大の効率を発揮するからだ。わたしという文脈に引き寄せることで、あらゆる言葉はわたしから展開されるメタファに帰す。その結果、あらゆる言葉はわたしの「参考」になる。逆に、そうでもしなければ優れた文章といえども「空想」に過ぎない。いくらあなたにとってリアリティに満ちていてもだ。
だから、僕が日記を書く際に文脈を気遣うことは無駄なのかもしれない。それによって得られるのは自己満足だけかもしれない。切り離し、抜き取り、並べ替え、僕にとってはとんでもない文脈の破壊によってさえ、意味の欠片は生き延びて固有の「感じ」を再生したり、わずかな食い違いだけでみなさんに伝達されたり。つまり、文脈同一性というのは客観的にみると取るに足らない。
わたしの文脈をあなたに伝えることは、あなたの文脈をわたしが奪い取ることでもある。それと逆に、いや同様に、わたしは日々みなさんの文脈を奪ってしまう。いや、奪うという言葉はややこしいな。壊す、だ。むしろ奪われるべきなのか。どうでもいいが、はじめに「争奪戦」なんていう見出しを思いつくからこういう不具合が発生する。
あなたは大変なものを盗んでいきました。わたしの文脈です。(丸投げである)