日記

なぜ日記を書くのか。目的意識はない。しかし、日記を書くことで何かが起こる、何かが産まれるという目的可能性については脳天気に絶望的に直感している。
言葉になることで陳腐化するものはある。ありったけを書きたいと願うときにもっとも大きな抵抗をかける事実である。しかし、何がどう陳腐化するのか。言葉になったものが、読まれることで、その言葉が陳腐であると認識される。これが構図である。そう、わたしが陳腐化するわけではない。また、陳腐化させるのはわたしでもない。ならば、自分を信じさえすれば後ろめたさは成り立たない。
ありのままを、と願うとき、気持ち悪さに苛まれる。混ざりすぎているから。カテゴリやタグという発想に落とし込めない。見出しさえもつけたくない。パーマリンクなどすべての段落について然るべきなのに。システムがわたしにかみ合わない。弾かれる、疎外感。しかし、その文章ひとかたまりをもってひとかけらと成し、わたしに付されるメタデータとするなら、枠組みに関してのみ類推が効き、内装に関してわたしという現実に議論が追いついてないという優位に気づく。さらに、その思考そのものが型にはめられたものと識る。
なぜ閉塞するのか。気づいたときには、気づけることすらできないからだ。気づかないということをのみ、気づいていないときに、気づくことができる。
からっぽな脳内と、満ちあふれた脳内は紙一重にある。負の思念に満ちた脳内を、ひとはからっぽと感じるのだろう。そのときに、ひとはからっぽであると感じることはできない。
夢から現実に戻るのは、いつだって不確定だ。覚めるべき夢を、ひとは知っているのだろうか。ならば、わたしが日々目覚めるのは、それが終わりを迎えるべきときに限るというのか。現実の始点は、なんの必然も伴わない。
しかし作為は通じる。夢の外、身体や環境に対する細工によって。逆に、夢のなかの夢によって夢を操ることはおろか、あらゆる自覚をも許されない。
しかしそれでもなお、わたしは覚めるべき夢のそのときを知りたいと、現実のなかで架空の夢を仰いで願う。
世界は称賛に値する - 思考リソースを開放して、閃きを呼び起こそうとする