反省・実験・個人

文体にアイデンティティを見出すことは個人サイトの利用によって強化される。総表現なんていう言葉を持ち出すつもりもないが。しかし、それ以前にも作家は文体によるアイデンティファイを感じていたのではないだろうか、と考えたとき、彼らは思想におけるパラダイムに先駆けていたということだろうか。あるいは、文体やアイデンティティという概念がいまと異なる以上、彼らはまったくべつな反省を備えていたのか。また、文体と人格を切り離して捉える作家もいただろう。
ところで、行動や思考のすべてが言葉になるわけではない。だから日記で表現できることは限られている。しかし、日記という表現は書くという行為の結果であり、書くことに付随するデータを分析することで行動をわずかにトレースすることはできる。分析ではなく、同時進行して相対速度を縮めることでみえてくるものもある。それこそがブログの価値である。というのは単なる価値実験で、そう考えると新しい発見があるのではないかという希望に過ぎないのだが。
この実験という言葉はじつに妙である。これはあくまで実験なんです。責任はすべてわたしのわたしに対するものであり、つまり社会的なところの責任自体が成立しません。これはわたしの人格を規定するものではなく、したがってあなたはこの実験に関してなんら情緒的な反論を加える余地がありません。社会的な意味での責任の喪失、それは個人が認められることであり、すなわち自由である。