授業に価値を認めないのは合理化では?

危ない橋を渡るときなんていったけれど、あらゆる選択、というか決意は、なべて危ない橋に通じるのかもしれない。
あまり関係ないけれど、今月の05日に書きかけた日記を載せておく。

わたしの狂気

一年生のころ、授業は単にいやだった。二年生のはじめごろ、出るのが当たり前であり、とくに理由がなければ出席すればいい、と素直に思っていた*1
いま、苦痛である。狂気が眼にみえる。空気がひずんでいる。視線と規律によってみずから檻を閉ざしている。みなさん、お気づきなのかしら。それとも欺されているのはわたし? メタ洗脳装置に囚われている!?
自信と誇りと傲りはじつに微妙な関係だとさいきん思う。狂うわたしを繋ぎ止めてくれる表現体(メディア、コンテンツ、ヒト)はわたしに自信を与えてくれる。だからわたしはほっとする。その価値をより積極的に認めたとき、誇りとなって推進力に変換される。

一方で、あたまの堅い、古い、つまらない表現体はわたしに対抗する。究極の解などありえない以上、その意見は一考に値する。だからこそ狂いそうなのだから。しかし誇りと不協和する。だから退けなければならないのだ。
洗脳は精神力を奪うことから始まる。ときに緩やかに。ときに、鈍器で破壊するかのように。自信、誇り、傲りの余地なく不協和が蠢く。だからわたしは、わたしを認める表現体を欲する。しかし気づいてしまう。わたしを認める表現体もまた、わたしを認める表現体によるわたしに対する洗脳によってこそ機能していたことに。
非社会的な洗脳は狂気ではない。洗脳が互いに干渉を始めたとき、因子の一欠片となったわたしは居場所を失う。社会は洗脳に満ちているのだから、訪れる結末は明らかだろう。
その結果、社会は、わたしたちは、どうなるのだろう。「その結果」を、考えずにはいられない。その「結果」を、わたしは考えたくもない。ならばわたしは狂気でありたい

(見出し未決定)

陰謀論的な妄想はひとまず引っ込めて、授業の価値というものを客観的に評価してみよう。このまえ書いたように、まず知識や技術を伝達するためのボトムアップな教育という意義がある*2。ある明確な目的と意図的な履修が伴うなら、それはトップダウンの学習でもある。
そうではない意義は、大まかにいってしまえば「先生のおしゃべりを聞く」という