ランダムアクセス自己紹介:情報学

好き勝手ネットで遊んでいるので、さいきんは「このきをふしってひとってどんなひとだろう?」っていう疑問に対して応じることのできるドキュメントが致命的に欠けていると思った。まあついったーみてくれって話なんやけど。それにしたって、何がわかるというのか。
わたしがどういう人間であるかなんて僕こそ教えてほしくて、それどころが日々移りゆくもので切り取ったときに死んだわたしは過去に生きているのです。そんなのは屁理屈にも至らない妄言で、自己をプレゼントすることは文法的配慮をもってその機能を成すことは明らかです。
僕は小学五年生のころにインターネットを始めてアバターチャットで女性を見つけては(ryとか、僕は保育所のころから引っ込み思案で人見知りで、小学校に入ってからはスーファミで遊んで(ryとか述べても、そんなことはこの人生で何度も振り返っていることで、記録されてはいなくとも、再生を繰り返し、そのことにことさらの価値を認めるわけにはいかないので、主観という名の乱数を用いて帯の切れ端を陽に透かしてみるところです。
図書館に興味をもったときのこと、ええ、それも何度も再生したことがあります。興味の移り変わり、ええ、それもまた何度も。高校生のころは本を読んでいた。いま読んでいるかというと、腑に落ちない。たしかに読んでいるけれど、という意味です。
ところで、こういう一定のテーマをもった文章はせっかくのブログでまたはてなダイアリーであるからして*のあとに[自己紹介]などと書いておけば、気づいたころにはうれしいかもしれない。記録は一定のフォーマットでおこなうことに意味があると感じている。それは振り返るときに実感する。フォーマットに則った記録は一覧が容易で、比較も検討でき、継続を喚起される。
タギングの何がおもしろいかというと、発想の上では自由なのに、あとでフォーマットとして姿が立ち上がってくることだと思う。記録のフォーマットは本来それ自体に気を遣わないといけないが、その堅さを緩和するのが流行のライフログだと思う、とてきとう言ってみる。フォーマットには形式レベルと意味レベルがあると思う。タギングは極めて緩い意味レベルのフォーマッティングに、取って付けたように形式レベルのフォーマットを加えて、絶妙なバランスでインデキシングを達成している。しらんけど。
意味レベルのフォーマットを意識するとき、冗長さは害悪を成さない。それが愉悦であるなら表現そのものを形式フォーマットに頼る必然性は一切見出せず、むやむや。
しかしやはり過去よりも現在ではないか、それは焦りを感じている証拠なのだが、思ってしまう。過去から見出せる現在、というならばよいのではないか、などと。
大学では情報学を勉強しています。しかし大学の授業で情報学に触れた覚えがありません。僕がまじめに授業を受けていないからですが、まじめに授業を受けたからといってわかる保証はありません。
大学には、情報学というからにはあまり前の範囲だとしか思えませんが、いろいろな先生がいます。それぞれの先生が情報の定義をある程度は形式的に掲げており、質問すれば三分ほどでそのお考えを示していただけると思います。それらはてんでバラバラだと思います。では、学生はその中からどれか気に入ったものを選べばいいのでしょうか、それとも「統合」を目指すのでしょうか。
まずは目的を明確にしましょう。情報学に関して、何を目指すのか。就職面接の場で「情報学とはなんですか?」と聞かれたときに三分で説明するレシピでしょうか。「情報学ってこういうものだ」って3秒で納得するための精神衛生でしょうか。(画一的なところの)情報学などありえない、というのはもう明らかです。ならば、もっと局所的に考えて、ある要素的な情報技術を身につけることや、現代社会の一側面に対して意見をもつことが、重要なのでしょうか。
先生たちの情報学観は、情報学とは何であるか、というより、情報学に見出せるある一領域の定義に聞こえます。「わたしがどのように情報学に関わっているか」つまり専門です。研究職を目指すのでもなければ、ならば、学生がその意味で情報学とは何かということに対して答えを出すのは、むしろ貧困であると思います。かといって、答えに収まらないすべてをもって情報学として把握することは、なおさらに無理です。
大まかな認識として、要素的情報技術と現代社会批判の和集合によって情報学の6割くらいは表せると思っているのですが、それもじつに洗脳的で気持ちの悪い自意識です。あとコンテンツという概念がこれから重要さをますと思いますが、優れたコンテンツをつくりだすことは、どう考えても情報学の役目ではありません。かといってコンテンツをマネジメントするといっても、それはどういうことなのでしょう。そこで技術と批判に還元してしまうのです。なんと貧困な思考回路でしょうか。
情報学を勉強することはできないが、何かを勉強した結果、それが情報学の勉強になっていた、という言い方もできそうです。明らかに意味不明(笑)です。
しかし大切なのは情報学とは何かであるという問いに対する答えではなく、現時点における認識と、不可逆な反復から見出せる時間軸の備わった言語化です。
インターネットが重要だと思います。よりより社会を築いていくためにインターネットを(ryとかじゃなくて、単におもしろいという意味です。当たり前に聞こえるかもしれませんが、インターネットについて知るにはインターネットが一番です。図書館について知るには図書館が一番だ、というのと同じです。Aさんについて知るにはAさんが一番です。
インターネットが目的である限りで、インターネットで遊んでばかりいることは、それ自体を妨げることはありません。インターネットでインターネットについて勉強したい、と言ったとき、それをインターネットの外から批判することは、なんの価値もありません。逆に言うと、まだそのレベルです。すなわち、インターネット以外のことについてインターネットで勉強しようとしたとき、たっぷりの批判に晒される機会に恵まれます。いまはとてもおもしろいタイミングだと思います。
僕の情報学は、いまのところこのふたつ、というか二段階です。インターネットについてインターネットで勉強すること。そして、インターネットについてインターネット以外で勉強すること。あ、まだですね、インターネット以外のことについてインターネット以外で勉強すること、あ、それと、インターネット以外のことについてインターネットで勉強することです、あれ?
明らかな問題があるのですが、インターネットは学問ではありません。何をもってインターネットと呼ぶかはわかりませんが。しかしそれは貴重な機会でもあります。もしかすると、大学で学問をやらなくてもいいかもしれないのですから。



何度も紹介した覚えがありますが、やはりこの文章は僕にとって非常に印象深いです。
三つ子の魂が不惑を越える - アンカテ(Uncategorizable Blog)