政治に興味をもつプロセス

なんとなーく考える。まとめるつもりも、一般論を述べるつもりもない。
政治に興味がない。知識はない。知識がないなりに興味はある。たいていの国民は、よく考えないひとか、情報入手に偏りがあるひとであり、僕ほどに知識のない国民が政治にどのように接するかは重要なテーマだ。また、知識のない国民が政治に興味をもつプロセスも。
僕にとって政治とは、だいたいにおいてニコニコ動画にアップロードされた演説などの映像をみることである。政治家やその関係者が、未来が明るいということを主張して、僕は爽快感を得る。または、未来を明るくするための方法を主張して、僕はそれを検討する。検討そのものがゲームでもあるし、その結果に説得力があるとき、ちょっと違った爽快感を得る。
僕にとってよい政治家とは、きもちのよい言葉をかけてくれるひとである。さらに、その言葉がただの幻想でないことを説得してくれるひとである。ひとを悪くいう政治家を僕は好きにならない。言葉が幻想でないことを説得する強力なきっかけになる場合でもなければ。
政治の構造にうとい。どこかの政治家は仕組みを知らなくてもよいとおっしゃったが、知っていたほうがよいだろ。さいきん国会というものを知った。だいたい衆議院・与党・自民党というワングループと、だいたい参議院・野党・民主党というもうワングループを認識している。ほかの政党や右翼・左翼という概念とのマッピングはできない。国会とは立法の場である(それ以外の話もしている? よくわからない)。法律をつくるひとと、法によってひとを裁くひとは分けられている。三権分立の偉大さにすこしだけ気づいた。しかし行政がよくわからない。内閣の仕事がわからない。
政策というものがわからない。立法については、国会審議をみることで雰囲気がわかった。立法が必要なのは、現状の社会が理想に反しているときに社会のあり方に手を加える場合、または現状の法律があるべき社会の実現を妨げるときにそれを改正する場合があると認識した。あるべき法律を法案という企画書にまとめ、国会で議論して企画書を叩いてから、決議を取って国会に提出するのだ(レポートボックスでもあるのだろうか)。
なぜ法律をつくるのだろうか。法律は守らなければ罪になるものであり、なんだか暴力的な印象を受ける。それくらい、だれにとっても正しい、うれしいアイデアというのを、どうしてもみんなに受け入れてもらいたいがために、法律にするのだと思う。だから、国会というのはだらだら長い。不鮮明な批判もあるだろうが、それを打ち消すくらいの立派なアピールができるものでなければ歓迎できる法律ではない。だらだらとした審議にもそれなりの役目を与えられる、べきだと思う。
たいへん不思議なシステムとして政権交代というものがある。どうやら野党が国をリードすることである。与党ばかりが政治を続けるとだらだらするので、たまに野党が代わってシャキっとすべきだ、という主張だと思う。それはもっともだが、政権交代という方法に説得力を感じたことは個人的にない。
僕はどのように政治に参加するか。基本的人権として参政権をもっている。参政権が具体的に何かはわからないが、とりあえず選挙権をもっている。これは僕の好きな政治家を支援できる権利だが、その際に言葉が幻想でない説得にこそ注目すべきだとみずからを戒めよう。ちなみに行使したことはない。
これを、政治家を考えて選ぶことのできる権利、とやや一般化するとおもしろくなる。僕は政治家たちの意見を知ることができるべきである。それが国民に適わないとき、僕の独断によってその問題に立ち向かうことは、恐縮だが正義であると確信する。政治家は過去が明らかであるべきだと思う。公人としての職務に関する行動を記録することは妨げられてはならない。もちろん、汚点ばかりを取り上げてまとめる記事にはうんざりとする。
政治に参加する権利を行使するには、考えることが重要である。たとえば論点を理解し、いくつかの主張を知り、それらの対立を考察し、事実・経験・感情などのいろんな角度から、もっとも説得力の感じる主張を選ぶことができる。それにもっとも近い政治家をおそらく僕は好きになる。
思い込みで決めるのは、いいけど、もったいない。国民は情報入手と考察のプロフェッショナルではない。よって、政治に関する情報に組織的にアクセスできるシステム、さらに情報に基づいた考察を支援するシステムの必要性は明らかである。たとえ「僕の独断によってその問題に立ち向かう」という場合でも、やはり妨げられてはいけない。僕は参政権というものをこのように思い切って解釈する。
報道を考える。メディアによる政治に関する報道は、会議・講演・審議などの一次資料に基づいた二次資料である。解説されたり要約されたり意見が述べられたりする。このとき一次資料へのアクセスが容易であるなら、報道がそのアクセスを提供することは当然だと思うが、あまりそうはなっていない(新聞にハイパーリンクは張れないし)。そんな報道は、ぶらーんとした印象を受ける。
論点・主張・対立のセットから問題を考えるときに、報道は適した材料とは思えない。いくつかの報道を組み合わせれば対応できるだろうが、それなら一次資料に当たるほうが僕は安心できる。さいわいなことに、政府によって提供される情報を僕はそんなに難しいものとは感じない。そこで報道に望むのは、論点・主張・対立のセットを提供してくれることである。もちろん観点に意図が紛れるのは仕方がない。しかし一次資料にはない価値をもつ。
政府による情報は難しいか。政治関係者はほとんどが文書のプロだと思う。とくに法律はシビアな文書だろう。しかし、よく読めば、文の骨格はわかる気がする。問題は、言葉の意味が日常と異なることだ。プロ特有の文法はパターンが限られるだろうが、プロ特有の言葉は言葉の数だけあふれる。それを補ってくれるような二次資料を望む。それでよく読めばきっとわかる。
文書はだいたいおもしろくない。文書であるという理由で興味をもつひとはいない。読み手には問題意識があり、その問題に関するコンテンツを扱うとき、その文書に興味をもつ。主体の問題意識を前提にしないとき、つまり文書には独立の価値があるのか。感情に従ってないと断言したとき、話は変わるが、プロの文書に関する教育をどのように設計すればよいのか。しかし、世の中のひとたちはみなさんまじめでいらっしゃるから。僕が心配しても仕方がない。
依然として僕の政治に関する知識はボロボロであり中学校の公民の教科書をさえフォローできていない。べつに政治を勉強しようと思ったのではない。知識のない国民という等身大の構えから政治への興味を引き出し、解釈のうえで参政権の使い方を考えた。たとえば、あるテーマに沿って国会審議のある部分いくつかをニコニコ動画にアップロードすることは、僕にとっては立派な参政権の行使である。
政治に興味をもつべきか。これを僕が答えるのは茶番だけれど、まあ、べきっちゃあべきかなあと思う。政治の知識をもつべきか。さあいかがか。参政権に対する僕のアグレッシブな解釈は、政治の知識という観点から評価したとき、誉められるものではない気がする。しかし、僕が意見をもつという点では尊重されるべき行動だと自負する。
間違った意見はだれかが批判してくれる。学問とか政治のコミュニティっていうのは、そういう信頼のうえで成り立っている。ならば政治家でない国民としての僕は、政治についての知識をそんなり強化することはない。むしろ知識の伴わない興味にこそ価値があると期待する。
興味と問題意識は近しいものだと思う。我々は問題意識から論点を見出し主張をもつ。政治家はそれを洗練させ、さらに主張する。それを我々は受けとめてもっと考える。そのサイクルで素人考えの悪い部分がこそぎ落とされ、よい部分が煮詰まっていくという素朴な理想を思いえがく。僕は政治のことなんてろくにしらないが、このような構えを意識しているあいだは、かけがえなくすばらしい国民であると誇ろう。
もしかすると、それが僕の痛々しい妄想でないと受け入れてくださるかたもいらっしゃるのかしら。それなら、そんな構えをかたちづくるに至った、政治に興味をもつプロセスに対する興味深さも感じていただけるのではないか。
政治は世の中のいろいろに転がっている。失礼だが、入院したときの体験からナースを志すなんていうシナリオよりもよほどバリエーションに富んでいるだろう。僕の体験したシナリオが看護にとってのナースに相当するほどであれば驚く。