機能と作法のHA☆ZA☆MA

道具には機能が内包され、作法が外延するというさまを思いえがく。われわれは(いまのわれわれからみれば彼らは)機能から出発して道具をつくり出したのだろうか。「使い方」と聞いて何をイメージしますか。「使い道」といえば印象は変わりますか。正しい使い方はありますか。ものは使いようです。ものは正しい使いようですか。
機能が求められながらも作法が道具を変えていくことだってあるでしょうか。細かくみれば道具が手になじむということもそうでしょうか。使い方が道具とつくるのだなどといってみれば立派な言葉遊びに聞こえます。機能がすべてを決めるなんて理知的な思考に信念を埋め尽くされる余地は退けられました。
言い方によって機能は変わるのでしょうか。言い方をもって機能を諭すことはよい道具のあり方でしょうか。
道具をつくると、作法に言及してしまわざるをえないことに、しかし意図を抑えたいと望む。何かをできるようにすることは、それをすべきであるという意思からはかけ離れて起こるかもしれない。すべての結果に道具をつくるものの意思が込められているため仕方がないのだとおっしゃるのか。できるようにする必然をだれが見出し、責任はありうるのか。
その道具の本質は何か、欠かせないことは何か、最小の機能は何か、それが最低限の使い方をどのように制約し、だからこそほかの使い方を秘めているかなどと考えることはふつうでない。だから、道具をつくることは作法への言及だ、説教ですらあるかもしれない。そんなふうに遊び道具をつくることはありえない。
仮にあるとしたら、機能はつくるものに責任がある、作法は使うものに責任がある。そんな反省をもって使おうとすることはふつうでない。作法をぬぐいさってから機能に文句をいうことなどめずらしい。説教するという責任感をもちながら機能を考えることはふつうなのか。この対立は僕の生み出した誤解にすぎないのか。
責任という言葉がもっともらしさをもちうる理由としては、作法が機能を変えることもあるということだ。それにしたって、いったん機能になってしまえば責任はすべて明け渡したかのようにふるまえる。そんなことを考えないのがふつうだ。
説教が野暮であると知り背中で示すことがどれだけ粋といえるだろうか。その原理はいやみったらしいさまとも通じるのではないか。あるいは意思を包み隠すことをもって相手に忍ばせるずるがしこさをもつ。しまいには企んでは穿つことの繰り返しに、しかしならない。