データ=知識≠情報

あたまのなかに存在しているものが知識である。ある表現がひとに伝えられるとき、その表現を情報とよぶ。その表現がひとのなかに残ったら知識である。
情報から知識を得るには知識が必要である。情報を知識に変える方法は、知識であるからだ。宣言的記憶であれ、手続き的記憶であれ、記憶を形成するには(手続き的記憶である)知識がなければ成り立たない。たとえば符号化という手続きのために知識が必要だ。一般に言葉を覚えることよりも方法を覚えることのほうが習熟が必要とされるのは、そこで求められる知識の複雑さによるのだと思う。
そうやって考えてみると、いわゆるサービスの役割というのは知識の外化なのだとわかる。また情報処理あるいは情報処理モデルというのは言い得て妙で、どれだけ外的に実装された方法によって情報が加工されたとしても、人間のなかに残らなくては知識でない。
つまり、何らかの主体のあいだを行き交う表現を情報、ある種の主体(人間)の保持する表現を知識と定義する。人間が知識を得るためには知識が必要である。しかし外化された手続き(さて、これを知識とよばないならなんとよぼう?)によって情報処理することで知識の獲得を効率化することは、できる。
いいえ、そんなことは本質的ではない。知識にはもっと重要な側面がある。たとえば実社会の問題解決において有用であるという性質、あるいは正しさが求められるという性質である。これは、日常的には納得できる。
ところで、高度な情報処理は人間を介さずに問題解決を可能にするかもしれない。外化できる手続きが高度化するつれて、知識をもつ主体は人間に限らなくなるのではないかと予想する。いわゆる人工知能あるいはエージェントが実現されたとき、その主体を知識の持ち主(人間)と区別することは果たしてできるのか。
コンピュータによって保持された表現はデータとよばれる。実装された方法(プログラム)もデータである(実装にはハードウェアも必要だが、人間も同様だ)。ならば、これは高度さというほかに知識と区別できるのか。どのように本質が異なっているのか。あるいは焦点を変えるなら、組織のもつ知識、というものは成り立たないのか。
情報や知識などにまつわる主な概念は、「主体によって保持されたもの(A)」、「(A)をべつの主体に伝達するときに確認できるもの(B)」、「(B)をべつの主体が保持するときに必要な手続き(C)」の三つに整理できると思う。
(A)は文脈に応じてデータ・知識・記憶・表象などとよばれる。(C)は(A)の一種である。