エンジニアは意欲をもち成長しサービスに広く関わり成果を上げ高い報酬を得るというストーリーに賛同できるかどうか

2010年8月27-29日日本Ruby会議2010に参加しました。
1日目にrake:money 拡大版〜Rubyエンジニアと企業の幸せな関係〜という企画に参加しました。
簡単なメモは@kiwofusiのTwitterログをご覧ください。

エンジニアはサービスに広く関わり成果を上げ高い報酬を得るべき

海外では優秀な新卒に高額な給料が支払われることに対して、日本では差がつかないことが議論されていました。海外ではエンジニアがサービスの企画までやること、日本でもDeNA、GREE、ドワンゴが新卒にお金を出していること、即戦力となる新卒はめったいいないこと、などの意見が挙げられました。
よいサービスをはやくやるためにはエンジニアが企画もやって、サービスの収益はエンジニアに還元されて、したがって優秀なエンジニアは相応の収入を得られるべきだ、という方向性を感じました。
また、今後活躍できるエンジニア像として、特定の技術を極めた職人的エンジニアと、企画から開発までできるオールラウンドなエンジニアに二分化され、そして職人的エンジニアになるのは圧倒的に難しい、という意見もありました。

感想

雑多に。
(素朴で幼稚な疑問)ある仕事をどれくらいしたとき、何円の報酬を得るのが適切である、ということをどうやって決めるのか? 現実的には何円かというのは市場のバランスで決まるのだろうけれど、エンジニアの生み出した価値とか、サービスがユーザに提供する価値というのを、どうやって比較したり数値化したりするんだろう。自分が得るべき給料というのを、どうやって自分で考えればよいだろうか。どうやってその感覚をつかめばよいのだろうか(ただ仕事を積み重ねて「相場」をつかめばいいのか?)。
(会場で質問したかったこと)こういう議論をするひと(このとき会場にいたひと)は、マネジメントにも携わっているひとが多いと思うが、部下の評価・給料を決めるときに悩むことは何か。
(企画に対する意見)金に興味のないエンジニア、あるいは逆に、現状の収入・待遇に不満をもつエンジニアを議論に交えてほしかった(もちろん参加者が口を挟めばよいだけなのだけれど)。というのは、やはり議論の方向性が奇妙に一直線に感じたから。オールラウンドなエンジニアに高給を、という(僕が単純化しすぎなだけかも)。
(想像)金に興味のないエンジニアとして、たとえばこういのだ。「企画をやりたくない、自分にできる一定範囲の仕事をこなして生活に困らない程度の報酬がほしい」。「サービスの成功・失敗が報酬に関係してほしくない。たとえよいソフトウェアをつくっても評価されないことがあるなんて冗談じゃない」。「企画も金も好きなひとが考えればよい。自分には関係ない、好きじゃない」。
(「エンジニア」という概念について)エンジニアリングとは何か、というのは調べれば見つかるのだろうけれど、個人的な感覚からいくと、「かたちのあるもので問題解決すること」というところだと思う。サービスで一山当てようというのは、もちろんそのプロセスの一部はエンジニアリングなのだろうけれど、それらすべてをやるロールをエンジニアとよぶこと、名前を遣い回すことに違和感を感じる。かといってナントカクリエイターとかいうのも……。
(「はたらきたい」と「はたらきたくない」)はたらきたいひとは能力を身につけてよい仕事をして高い報酬を得る、そしてエンジニアを目指すひとはそうあるべきだと、というのはまあ美しいは美しいんだろうけれど、そうでないひとを考慮から外すのがまっとうであるかというのは、信条が違えば水掛け論なのでまともには議論できないとは思うけれど、僕は「はたらきたい」という思いも「はたらきたくない」という思いも、両方もっているから、どちらかに絞って、美しい人材像にまっすぐ向かおうという気分にはなかなかなれない。
Twitterから転載)サービスの成果が報酬として返ってくるっていうのはそれはいいと思うんだけど、売り上げだるアイデアをいっこもつくれなかったらぜんぜん評価してあげないってことになるのかな? 期待と不安の両面を気にしてしまう。
Twitterから転載)企画におけるエンジニアの裁量が大きくなって、過渡期みたいなところで、成功すれば企画のおかげ、失敗したらエンジニアのせい、みたいな不当な責任の押しつけを受けてしまうことはないだろうか。
Twitterから転載)「エンジニアが企画も」っていうのは、どうも、美しい言い回しには僕は感じられない。やりたいひとはやればいいし、そのひとの視点、能力が貴重には違いないんだろうけれど。だってサービスってチームがつくるものでしょ。チームの組み方を工夫すれば。
Twitterから転載)「チームの工夫では補えない個人の複合的な能力から得られる成果」っていうものはたぶんあろうんだろうけれど、じゃあ、それは何か、またつぶせないのか。
(↑について)あるべき人材像の議論っていうのは、人間には素質とかやる気がそもそもあるものだ、あるいはあるひとはこうあるべきだ、というもので、美しいけれど、気分がのらない、かといって無能ではない人間はわんさかで、そういうひとたちもしあわせに生きて、価値を生み出せるような世の中のほうが、僕は、ハッピーだと思う。だから、個人の欠点というのは、可能である限り、システム、文化、習慣、コミュニケーションによって補うべきであると思う。どんなに手を尽くしても解決できないなら自分自身が変わるしかないけれど。まあこういう話は、オレが今後10年間でできる限り稼ぎたい、というときには考えても割に合わないことで、信条の違いによって議論が成り立たない議題かもしれない。実際、「オレが優秀だったら関係ない」、小さい(?)組織なら「オレらが優秀だったら関係ない」もんね。
(そもそも)金と、価値と、エンジニアリングと、ビジネスの関係ってなんだろう。
(認識)恥を忍んでいってしまうと、僕はビジネスの成功・失敗をギャンブルのようなものだと思っているし、譲歩してゲームのようなものだと認識したとして、それがおもしろいゲームであると興味をもっていないことが、このような話題に対して気丈でない姿勢をもつ理由だと思う。しかしこの認識は体験によって簡単に変化するだろうという予想もあって、はたらきたいというきもちも手放してはいない。だから、この種の議論には、経験を積んだうえで、なお、金に興味がないエンジニアに参加してほしい。

個人的な論点の整理

エンジニアはサービスの企画に参加すべきか。参加したほうがよいサービスをつくれるか。
企画ができないエンジニアと企画ができる人材によるチームと、企画ができるエンジニアによるチームでは、プロセスや成果物にどのような違いが出るか。
サービスの成功・失敗はどのくらいエンジニアの収入に影響すべきか。
ほどほどにはたらいて、ほどほどの収入を得たい、と考えるエンジニアを、企業はどのように扱えるか、扱うべきか。

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この記事がおもしろかった。「自分が生み出せる価値」とか、「価値に見合った報酬の程度」を考える前に、オレはこれだけの金がほしい、というところから出発すると、悩みのいくつかは解消するかもしれない。