非コミュにとっての勉強会
"ぼっち(誰とも話せず何もしていない状態)になる事があります。これは仕方ないので多少は覚悟しましょう。こういう時は携帯端末を出してTwitterでもしてれば良いです" / 勉強会にいこう - 日々常々 http://htn.to/4koGLH
をみてむむむこれはと思い、勉強会にいこう - 日々常々というすてきな文章を読んで、
ちょうどよい記事を読んだので、あとでポジションペーパーに「勉強会について」を追記しよう。
と思ったのですが、べつの記事として書くことにします。
あるイベントの懇親会でハイパーぼっちタイムしていたらDeNAのなかのひとが声をかけてくださって助かりました。僕がイベントを運営する側になったときに、こういう気遣いができたらいいなあと思いました。という出来事を思い出しました。
べつのイベントでは内輪感について意見が交わされていた。僕はというと、お知り合いのかたがいらっしゃったおかげでなんとか有意義なコミュニケーションを果たせたと思う。でも、もし知り合いがいなかったとしたら、まあべつにだれとも話せないわけじゃなくて、自分から発表者とかに質問しにいけばいいんだけど、しかし、あまり共感されてもしょうがないけど、非コミュにとってそういうのはとんでもないことです。(このへんは主張が矛盾するんだけど)こういうビジネスではない主体的なイベントっていうのは、フォーマルなコミュニケーション(業務)と、インフォーマルなコミュニケーション(おしゃべり)のあいだくらいにあると思う。つまり非コミュのためにある。業務では文脈外の意見交換なんてしないし、非コミュにとっておしゃべりというプロトコル不明のコミュニケーションは困難すぎる。だから「発表を聞く」ところから「発表者に質問する」という形式的なコミュニケーションが用意される、こういうイベントは非コミュにとって貴重な場だし、もっと勝手をいわせてもらえれば、今回僕が知り合いに助けてもらったように、群れからはぐれた羊のような非コミュを救ってあげる仕組みがあるのが理想であるという意味で、内輪感という問題を解決すべきなのかなということも思いました。
これはポジションペーパーに書いた参加の理由はとくにありません。怠け者で非コミュなのでこういうイベントにでも参加しないと勉強やコミュニケーションができないのです(どやぁ)という意識につながります。主体性がないようで不愉快に聞こえるかもしれませんが、気負わないかたちでの一種の主体性だとご理解いただけると僕なんかは助かります。
僕はひととの交流の機会を有意義に活かせる自信ががないので、だれかなんとかしてくれるといいなあと思うと同時に、僕と同じようなだれかをなんとかしてあげたいなあというきもちがあります。前者は意識くそ低いし、後者は立派なように聞こえますが、要するに問題としてはいっしょです。いきなりずばっと解決できたりしたいとか思ってはいないのですが、共感してくれるひとがみつかったら、僕はうれしいです。
ぼっちという概念を通して、ぼっちはつながれるのです。
勉強会に勉強しにくるやつが得をする勉強会をつくりたいね!