情報の雨に傘をさすまでもない

なんの拍子かは忘れた。id:AltNightが@altnightを更新していないことに気づいた。ブログはいつもどおりいくつか更新があったので、いつものように楽しく拝読した。あるとな(ここではひとの名前をよぶというより、作者あるいは情報原を指し示す識別子として、敬称を略した)の文章を読んで、僕も文章を書こう、と思ったのはこの一度だけではないはずだ(しかし二度程度かもしれない)。かまなくてものどを通る文章を読むと、もしかするとそれを逆流するようにきもちよく文章を書けるのではないかと予感する(酷い比喩だ)。あるとなの日記は僕にはそういうものに読める。今回はさらに、Twitterが更新されていないという事態に、風情が上乗せされた(何が風情だ)。なんだかよいなと思ったので、まねしようと思った(小学生並の動機)。Twitterを更新せずにブログを書いた。ブログを書いた? 僕はいまテキストエディタに文章を書いているし、これを書き終わってすぐブログシステムに投稿する予定はない。明後日くらいを意識している。だから僕は、僕はブログを書いているという可能性をきもちよく否定したうえで、僕は日記を書いていると胸を張れる(これも風情だ)。
id:AltNightには事情があってTwitterを更新していないのだと邪推できる。かたや僕は小学生並の動機をもってして(すなわち無意味に)それをまねしている。小学生並主観的意味づけを取り除けば、これはまねではなく、ふとした思いつきである。id:AltNightとは独立に、僕は@kiwofusiを更新せずid:kiwofusiを更新した。だからその事態からみちびかれる事態もまたid:AltNightとは独立だろう。何か通じたところがあってもそれは偶然である。
ところで、ある事態からみちびかれる事態もまた偶然である(断じてこの文脈の話をしている)。(原因に対する)結果ではない。ある事態をみたべつの事態が、思いつきによって姿をあらわす(擬人化)。
↑どうしてこんな書き方をしてしまうのか。
長いあいだみていなかったウェブ上の文章群にいくつか目を通してみた(この事態は時間的前関係にある事態とは思いつき的弱関係しかない、ということを上で言っている)。日記もあればウェブログもある。ウェブログからは興味深い意味パッケージが手に入る。ウェブログからよく得られる意味パッケージは、より大きな意味パッケージへの案内である(たとえば記事→サービス、記事→本)。これらが興味対象の意味パッケージリストに追加される。いわば、わくわくの穴埋めである。
しかし、それらとは関係のない(思いつき的に弱く関係のある)、おのずと思ってしまうこと、それを書こうというきもちがしみ出てくる。この理由を考察しよう(この理由についての感覚的理解の記述を試みよう)。それらのどれもが、僕の求める意味パッケージではないからだ。それぞれの味はあって悪くない。でも別腹だ(ところで好きなものなら本腹に入れろよ)。美しいことに、僕の求める意味パッケージは世界に存在していない(といえるほど稀少さを期待できる)。だから、世界は僕を満たさない。たとえば、どんな賢者の熟考も、それが賢者の熟考である理由から、僕を満たすことはない。
情報の雨は、僕を照らし出すように降る。傘をささなくても、僕のあたまの上は晴れている。



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