情報に挑戦するとき

情報の雨に傘をさすまでもないという特筆的感覚を日記した。この内容を説明的に記述すると――世の中から得られる情報にはおもしろいものがいろいろあるけれど、それらは他人の問題意識や興味に基づくものだから、自分の人生において自分自身が考えることほどは重大な意味を読み取れない。いろいろな情報を得ることによって、むしろ自分自身で考える必要性を感じてくるし、その楽しみを味わえるのは美しいことだ――という旨である。
そんなわけがないのである。ある種のウェブ上の情報活動によって、僕は考えることや書くことを減らしていると実感できる。なぜこのたびその逆様(ぎゃくようなんて言葉はないよなあと思って検索したら、これがさかさまと読めることに目を見開いた)の事態が起きたかというと、いつもと違うことをしたという程度である。そしてこれは原因として特定できるものではなくて、思いつきの関係である。したがってこの事態が逆様の逆様であることもありうる。
だいたいいつもびしょ濡れになって寝ている。なぜこの雨は僕の上に降ってくるのだろうか、考察しよう(感覚的理解の記述をry)。そう、情報の雨に傘をさすまでもない理由のさかさまだ。僕の求める情報を得ているから!僕は満たされて眠るのだ。
この日記の言葉を繰り返して記述すると、「他人の問題意識や興味に基づく」「世の中から得られる情報」が「自分の人生において自分自身が考えることほど」「重大な意味を」もつときとは? 「他人」を変数にして「自分」を代入すると解が得られる。たとえば「他人」が「自分」の「憧れのひと」ならば、「自分」は「他人」に「自分」を志向する。でもでも感覚的にはそんな大げさなもんじゃない。ちょっとした親しみを感じるひと、そんな程度。そのひとと「自分」の区別なんて気にする価値がない。
「情報」が問題ではない。「他人」という変数が重要であったわけだ。「他人」という変数にある志向性が代入されると、あらゆる「情報」は僕を満たしてしまう。
逆にいおう。「他人」という変数に断じて他人を代入するとき、僕は情報に挑戦している。それは、僕の求める情報(←それは、僕にしか生み出せない)ではない、と食ってかかっている。
ところで、自分に降ってくる情報の雨に傘をさすというアプローチはありうるのだろうか(どうでもよい)。