期待の裏切りを期待すると物語を楽しむことを失敗しやすい

評判のよい作品がおもしろくなかったことがある。
期待した作品がおもしろくなかったことがある。
このさまを「がっかり」という。

評判のよさは(僕の)満足の大きさと無関係ではないか

評判のよい作品がある。評判は、点数の代表値(平均値や中央値)や、ランキング(投票)によって観測できる。
評判のよい作品は、多くのひとに満足された作品であると理解できる。実際に僕は、評判のよい作品は「よくできている」と感じることが多い。
満足には質がある。
「満足の質」を極限まで類型化すると、「満足した」と「満足しなかった」という二つの選択肢ができる。「満足しなかった」ものに無反応という反応を示し、「満足した」ものに投票という反応を示すことで、ランキングという評判が形成される。高い順位を獲得した作品は(多くのひとに満足されただろうが)大きく満足された作品であるとは、とてもいえない。
点数は、「満足した」と「満足しなかった」の境界をあいまいにして、一般に3段階〜100段階程度の選択肢に分解するとできる。点数の意味(質)は採点者によって異なる。とはいえ、ある程度の「満足の大きさ」を反映できるはずだ。しかし、代表値をとることによって、満足の大きさがだれにとってどのくらいであったかという、いわば「満足の大きさのうねり」は切り捨てられる。点数の代表値は、ランキングと同程度の表現力に思える。
代表値に頼らず、感覚的に「満足の大きさのうねり」を解釈するアプローチも考えられる。たとえば、100点満点における100点の評価には特別な質が込められていると仮定し、その割合に注目できる。また高評価と低評価が同時に目立つ傾向から、「好み」に合致する可能性を秘めたある種の特異性を読み取れる。
しかし、彼ら(たとえば100点採点者)の「好み」が僕の「好み」と合致するかどうかは、「満足の大きさのうねり」だけでは判断できない。「満足の大きさのうねり」に基づいて僕の満足の大きさを期待することは、お祈りである。

評判がよく、期待した作品が、なぜおもしろくなかったのか

評判よく期待した作品がおもしろくなったという場合のだいたいは、「思ったよりおもしろくなかった」という感想である。評判にたがわず、その作品はよくできていたと読み取れる。しかし、うきうきわくわくしなかった。
たまたま僕は、という話かもしれないが、僕の期待した高評価作品には、物語の構造や構成が工夫されている作品がいくつかある。ここから、僕はこれらの作品について「思ってもみない展開がある」と期待する。この期待は、文字通り以上の期待を意味している。つまり「思ってもみない展開がある」という期待(予想)に外れる「思ってもみない展開がある」と期待している。
物語の構造や構成の工夫とは、時間もの、伏線、叙述トリック、複数視点などである。これらは評価(レビュー)によってほのめかされることが多い(たとえば「伏線がすごい」)。また(ノベルゲームにおいて)評価によってつくられるいわばメタ構成として推奨攻略順という概念がある。推奨攻略順を主張するレビューを読むことで、読み手はその作品がある一つの(レビュアーによっての)理想的な構成を秘めていると意識せざるをえなくなってしまう。
物語の構造や構成の工夫を評価するレビューによって、僕はその作品に「思ってもみない展開」を期待する。その結果、「思ったよりおもしろくなかった」となる。思えば、「思ってもみない展開」を楽しんだ体験は、「思ってもみない展開」への期待とは関係がない。関係がないというか……。
物語の楽しさとは何か。「それからどうした」を追うことである。感覚としては「続きが気になる」。物語の構造や構成の工夫を期待しているとき、「続き」とは「隠れた構造」や「劇的な展開」である。穴埋め問題のようになる。「続き」が未知であることと、「続き」が未知「X」であることでは、物語体験において決定的な違いがあるのではないか。喩えるなら「観光」と「取材」の違いではないだろうか。

僕ががっかりしたように、僕がひとをがっかりさせたくないならば

僕は、ひとに作品を推薦するとき、作為的無根拠、作為的無関係を装うよう注意すべきである。
伏線のすごい作品をひとに推薦するとき、その推薦自体が伏線であるならば格好良い、とあいまいに妄想してみる。



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