脳内でフェルミ推定するアホらしさ

フェルミ推定の問答パターンって就職受験術としてたぶんみんな知っている。仮定と計算によって答えるっていう。でも、○○を××として仮定します。仮定します。仮定します。とかって見ると、は? は? は? ってなる。なりません? いやもちろん、これは受験術として手垢がついてテンプレ化されたせいでアホみたいなことになっているだけで、提案者の考えたことやフェルミ推定という問題パターンそのものはもっと興味深いのだろうとは思う。
でも、こんなの当たるはずないだろ、って自信がもてる答えを披露する誇りはない。なぜ僕がそう思うかというと、べつに受験術を批判したいわけではなくて、仮定に使う常識というものを僕はもっていないという自信があるからだ。シカゴってどこだよ。ピアノなんてドの位置もわからんよ。だからもし僕がテンプレを使って回答するなら、ランダムな数字を吐くマシーンになる。なんてデッド・フィッシュ・アイなことだろう。
(ところで本当にフェルミ推定のような問題が就職受験問題として流通しているのか。そういう意味で、この日記は仮想敵とのシャドーボクシンクかもしれない。たとえば国語のテストにおける「作者の気持ちを答えよ」は9割がた都市伝説だと思う。もしどこかの学校がそんな問題を出したら悪問だと批判されるだろう。しかしフェルミ推定はそんな悪問とは言い切れない。かといって手垢がつきすぎていて、(どうでもいい妄想だけれど)もし僕がフェルミ推定を出すとしたら、ふつうの受験生か、ふつうじゃない受験生か、を判別する問題くらいにしか考えられない。そんな判別は性格診断みたいなやつ、「身の回りにスパイがいる」1問で十分だと思う。
常識、あるいはちょっと専門性があるならドメイン知識、そういうのが未知の推定には重要であると思うのがふつうだと思う。受験会場における推定問題は、もしかしたらドメイン知識のほうを問う目的で出されることもあるだろう。もしそっちなら僕は恥を晒すことしかできない。
でも聞けばいいでしょ。シカゴはお詳しいですか(笑) ピアノはお詳しいですか(笑) ふつうお詳しい。ふつう、出題者はその問題についてお詳しい。問題を出すって(要求を出すって)ふつうそういうことでしょ。そのドメインで悩んでいるのは出題者だから。仮定は出題者にさせればいいと思う。
そして計算。計算、要るだろうか。なぜ数式によるモデルをつくるのか。感覚ではだめなのか。感覚を記述してひとに伝えるっていうことなのかもしれない。数学のテストでいう途中式。そのもとには暗黙的な途中式があるはず。暗黙的な途中式は他人どころか自分にも批判できないから、感覚による回答は試験にマッチしない。計算過程を言葉で説明する利点は、計算過程を批判できることだと思うが、受験会場でその議論が起こるだろうか。
いわゆる集合知(群衆の知恵;Wisdom of Crowds)では、多様な予測モデルがそれぞれの誤差が打ち消し合うことで答えが正解に近づくとされる。ここでの集合知は、ふつう途中式を考慮されない。しかし、そのもとには暗黙的な(言葉になっていない)途中式(予測モデル)があるはずだ。その多様性を守るために、集合知では途中式を議論してはいけない。けれどこれは一つの極論(実用的な制約)であって、議論の可能性を信じたいというきもちを僕は捨てられない。
このように、未知の推定をするとき、いくつかのアプローチが考えられる。

  1. ひとりのひとが暗黙的な予測モデル(感覚)によって答える
  2. 複数のひとが暗黙的な予測モデルによって答える(集合知
  3. ひとりのひとが言語化された予測モデル(数式)によって答える(受験会場)
  4. 複数のひとが言語化された予測モデルを議論して答える

ミクロなスタート地点に、個人の感覚がある。その集合をあっと驚く統計のトリックでまとめ上げるのが集合知だ。他方で議論による答えの模索に僕は知性を感じる。じゃあ受験会場の推定問題はいったいなんだっていうと、一方的な試験だよなあ、と、ありていにいえばむかつく。だから、シカゴはお詳しいですか(笑)
って考えると、逆に、グループディスカッションという受験会場でフェルミ推定を出題することには意味があるかもしれない。


  • ビジネスのための雑学知ったかぶり フェルミ推定
    • 一つの問題をいくつもの角度から考えることが、答えの精度を上げるためには必要なことになってきますという考え方は、まさに多様な予測モデルですね。即興のグループディスカッションでここまでたどりつけるとすごい感じがします。