ポイ捨て禁止?

なんか、書こうとしていること、いくつかあって、やっつけないとなあと思っていたのに、ちょっと道を行き来して、パソコンの前の椅子に座ったら、何も書こうとなれなくて、おかしいぞ。
仕方がないので、あったこと、および、あったことに付随する思ったことが、勝手に書かれるのを待とう。きのうは、と書き始めるも、めんどうだし←こういうのつまらん。
考えたことを書くとして、考えるきっかけというのがあって←出典、考えたことが暴走していないか確認するために出典と照らし合わせながら書く戦略がある。そこで出典を確認しようと、本やウェブページを開いて該当部分を見つけるタスクが生じるのだけれど、そのおこないは考えるとか書くということから遠く羽ばたいていってしまっている気がして、いったい何をしようとしてるんだ、とつらくなる。いったん該当箇所が見つかったとして、それを考えていることや書こうとしていることに照らし合わせるのが、もやっとしていてよくわからない。その突き合わせは意味と意味の比較、すなわち解釈と解釈の比較の解釈、わからない。



なぜ制約によって質や生産性が上がるのか - 反言子みたいなゴミにURLを割り当ててインターネット検索エンジンにインデキシングさせてしまうポイ捨ても、たまたま着想:制約は観点を内包する(問い:なぜ制約によって質や生産性が上がるのか) - 反言子と回収できるのだから、そんな不利益でもないかもしれない。

ツリーではない、セミラティスという構造があって、これを論じるためにアレグザンダーという出典と突き合わせないといけないし、これから書く着想を得た柄谷のある本という出典とも突き合わせないと行けないと思うのだけれど、そんな注釈をだらだら書いてあなたの認知リソースを浪費させることを遠慮できないのだけれど、そういうのはとりあえず放っておいて。でセミラティスは変なツリーとしてかけるのだけれど、同様の構造をグループの重なり合いとしてもかけて、この違いと同じはずいぶん劇的にみえる。重なり合いっていう言葉の響きも好きだ。
ソフトウェアや情報システムのモデリングはいろいろ手段があるとして、社会デザインには(後略)。生き生きとした情報システムにおいても、たぶんツリー的なあれで(後略)。セミラティス。トップダウン。育てる。パターン。要素よりも関係。子要素と子要素の共通グループ→親要素同士の関係。要素→要素の詳細化だけでなく、関係→システムの詳細化。などと考えた。

努力している人間はフィクションなんじゃないかっていう感覚について。これを書くには、とあるアイドルの発言という出典があるのだけれど、どこか覚えてないし、探すのめんどくさい。あと歌の歌詞とか、ほかの歌の歌詞とか、それを聴いたり映像をみたりという過去の体験という出典を突き合わせしないといけないけれど、いうまでもなくめんどい。それに、これを語るためにあの本を読み終えよう、なんていう色気も出る。そのほうがシマリが出るとか予感しているのだろう。そういうの要らない。日記には。

自分でつくった自分で使っているサイトがあって、その使い方について考えていることがある。そのサイトという出典を突き合わせの必要あり。きもちの変化を記録する。きもちには種類がある。あるきもちはほかのきもちの傾向によってみちびかれる。しかしその大きなきもちを自覚的に記録することがうまくいかない。それは小さな記録の傾向からみちかれるものであり、明示的に観測、記録するものではないのかもしれない。しかしそうやって明示しにくいきもちがあって、逆にしやすいきもちがあって、それらを関係づけられたとしたら、べつに、なんでもないか。

一度目は物語として、二度目は小説として。この観点は高校生のときから印象深くて、なんかちゃんとひとつの記事にパッケージングしていないことにがっかりしかなくて、勝手に自分によっと書かれないかなという期待すらある。これも石原千秋さんの新書という出典との突き合わせが必須であって、違うイミで手を動かす必要があって、それは書くこととはなんの関係もない(さっさとやれ)。
この観点は物語でないものにも通用して、たとえば美術館を、一度目はこころでみて、二度目は写真を撮りながらみるという割り切りが計画できる。数学の授業なんかもこういう観点からニドおこなわれればよいのではないかと思う。一度目は物語として教師が説明するのをこころで聞いて、二度目は小説としてノートに書きながら考察する。
三度目移行は小説の読みとして深めることができるけれど、物語は一回限りのはかないやつなんじゃないかっていう不安が出てくる。好きな作品を何度も繰り返し読むひとがいて、たぶんそれは小説として繰り返しているのではなくて、物語を繰り返している気がした。それってなんなんだろう。

アニメを楽しむパターンを考えようかと思った。たとえば僕はキャラクターの戦略からみえる問題解決の図式化をどうこう。しかしこういうアニメに言及するっていうのは、それこそ本質的に出典との突き合わせそのものであって、もはや、それは書くっていうこととは本質的に無関係なんじゃないかとすら思うのは、さすがに投げやりだけれど。
ところでいまはある作品のある話数に言及したくて、それは見直して、重要セリフをタイピングして、そしてほかの本から得た発想を用いてそれを解釈、説明するという計画があるけれど、やっぱり突き合わせであって、そんなことできるのかよって思う。