「味見のやり方」を教えてくれたひと

ビッグマウス厨房という料理動画シリーズが好きだ。

ビッグマウス厨房をみて、料理の手法に「味見」というものがあることを発見した。「味見の姿」を初めてみた感じがした。
「味見」というのはフィクションだと思っていた。鍋のなかの汁をおたまですくって、小皿にたらして、エプロンをした主婦が小皿を口に傾けて、うん、とうなづくのが「味見」である。喩えるなら演劇のワザであって、現実の人間はこんなことをしないと思っていた。
BIGさんの味見は違ってみえた。てきとうで、プラグマティックで、「現実世界に生きる味見」だった。それは断じて料理のワザだった。
味見という手法が成立すると、料理における主体が転回する。味をつくるのがレシピでなくなる。自分になる。「あなたが味を決めていいんだよ」という転回だ。そんな考え方がありうるなんて想像したことがなかった、衝撃。
僕は味というものに不安がある。その不安とは本質的に他者に対する不安である。僕は味にあまり頓着しないほうだと思う。自分でつくって自分で食うぶんにはそれでなんのストレスもない。味見(味づくり)は、あってもなくてもいい。しかし料理をひとに食わせるとなると不安だ。ひとにまずいものを食わせてしまうかもしれない、という不安、かもしれないし、もうちょっと反省すると、ひとにまずいものを食わせてしまうリスクを自分の舌を使って回避するセンスの欠如を認めることの不安、かもしれない。
僕は味見というものに不信がある。味見による味と、食事による味、これらの並行論的な二元論を仮定する。料理の味に対する不可知論。それは逆説的に(おのずと「逆説的」なんていう高校国語的キーワードを遣ってしまうのは珍しい)味見に対する過信に基づいている。もっとファジーに考えればいい。味見と食事は、ゆるやかにつながっているし、そしてただその程度のものである。料理に失敗することが当たり前であるように、味見に失敗することは些末なことだ。料理の失敗を回避するように、味見の失敗を回避すればよいだけだ。
自分の信じられる味は自分の舌からしか得られないし、その不確かさは、ひとの舌の不確かさに比べればまだましだ。味はてきとうに感じればよいし、味見はゆるやかに信じればよい。創造における孤独さ的なものが想像できるとして、その風景はそれほどよどんでいない。味をつくる創造者もそこに立っている。
また、「食べ比べ」という手法もあることをわだへ〜教授の料理動画から発見した。ぶり大根の動画がわかりやすい。

「食べ比べ」は僕にとってフィクションですらなかったが、僕はこのかたちを知っている。科学的方法の一つだ。けれど決定的に非科学的なのは、自分の舌によって評価をくださないといけないところ、質を質のままに受けとめなければならないことだ。僕が「味見」を知らなければ、僕は「食べ比べ」をずさんな科学的方法におとしめた。「食べ比べ」の本性はむしろ現象学にある。