科学を舞台から引きずり降ろす

なんとなく、教育を受けてきて、科学的方法というのは、知をつくるための優れたしたやり方だというイメージが、自然に、かはわからないけれど、いだいてしまうような事態はあると思う。典型として、理学や工学の教育において。また心理学や経済学や、部分的には社会学においても、科学的方法は反省と戒めを込めて意義を説かれていると思う。その反省っていうのは、学問史的反省よりも小さいスケール、すなわち個人の反省感をも引き出してしまいがちだから、感情的に拒否してしまう、あるいは逆に感情的に受け入れてしまうような極端に振れるのではないか。たとえば「自分は数学が苦手で○○学部にきたけれど、本当に○○学を志すのならば数学的な方法を身につけなければいけないのだ」。こういう「(文系だと思われている)○○学は(じつは)科学だ」という(あくまで仮想敵としての)文句にはひとのコンプレックスを突く意地悪さを感じる。ある種の商法的な説得術のように思える。ここで絶妙のバランスで開き直るには勇気が要る。だいたいバランスを欠いて、無論理に拒否するか、無批判にひれ伏すかになってしまうのでは。べつに、数学は難しいし、数学を使った○○学は数学によって照らし出される○○学の一側面であると捉えればよい。科学的方法の役割を知ったうえで、でも嫌いだから、と避難するのは知性だと思う。
わりとだいぶの高等教育を受けるひとにとって科学的方法は当たり前のもの、すくなくとも科学的方法の利益は当たり前のものとして受け入れられていると思う。科学的方法が当たり前でなかった時代があったのに、と考えてみても、現代は現代なのだからべつにそれで当たり前だ。逆に、科学的方法でなしに学問できるという可能性に驚くことも、驚くべきことではないと思う。僕はそういうことにいったん驚いたところだ。いったん当たり前ができたから驚くことができる。科学的方法を当たり前としたとき、そうでない方法にはうさんくささが宿る。それはもはや方法ですらない。さらにこのうさんくささを解消したときに驚く。この、うさんくさくなくなってしまう事態が謎だ。例を。評論の技として、語源を解くことがある。これはうさんくさいものだと思っていた。語源によって何かがわかるという期待どころか、現実と無関係な連想を持ち出して混乱させる悪意を感じる。多様な発想を導くためには有効かもしれない。論証の技ではなく、発想の技としてなら検討できるかもしれない。これは悪い例だ。依然として僕にこの技はうさんくさい。なのにどうしてこれを挙げたかというと、もっと抽象化したところ、といえば聞こえはよいが、もっと漠然とさせたところに、例がある。漠然としているから例ではない。つまり、何かしらの説得術、弁論術、文章術、そういうところに対するうさんくささがいくらか解消されてしまっている。おおざっぱにレトリックとよぶ。それを具体的に例示することはできない。無理に例示した語源の技はやはりうさんくさかった、というところだ。レトリックに対するうさんくささの解消はどういうものか。レトリックと学問、この姿は二つ思い浮かぶ。レトリックを読むこと。レトリックを書くこと。書くにも、考えるために書く、観察するために書く、成果を発表するために書くなど。たとえば、どきどきする論文を書くこと。このどきどきは科学的成果としてまるで評価されない。では、このどきどきは学問としてはゴミなのか。きもちよい文句が出てこないので自己言及的に考えるが、僕がいま考えていることは、前提に科学的な問いがない。論理学の箱や数学の箱に入れたら消えてしまう問い、言葉なき問いだ。言葉なき問いを考えるためには、言葉を凝らさなければならない。言葉なき問いに知性を信じるならば、言葉の巧みさに支えられる知をおのずと信じるしかない。このばかばかしさは科学的方法の戦略において簡単に批判できる。これを再批判するにはどうすればよいのか。それも、言葉なき者が。
寄り道したら行き止まりだったのでむかついた。思ったことはぜんぜん言葉にならない。ひとを説得する言葉には、なおさら。巧いひとがいる。その成果もある。だから考えていられる。考えはじめができる。これを認めないわけにはいかないだろう、というか、うれしいことだ。
できることがぜんぜんない。つくるものがぜんぜんない。かたや、世間には美しくつくるひとがいる。ところで、美しいものの部品は、美しいのだろうか。美しくないとしてみる。もし自分が美しいものの部品をつくるとする。世間のひとが、そのような美しいものの部品と、そして美しいものをつくったとする。では僕は美しいものを部分的につくるのかというと、まったくそうは思わない。部分的な一致をつくれたとしても、僕は美しいものを、どれだけ有効数字を増やしてもつくりかけたことにはならない。こんくらい後ろ向きに書いてしまうと、もはや書くきっかけを紹介するのが恥ずかしくて、この日記はただ美しい作品をみて、それを紹介しようと思って、美しいものをつくる技があることはすばらしい、その技が科学的方法によって成り立つとしても、美を生み出すという目的においては科学的方法とは関係がない。科学的方法と同じ形式によってつくるとしても、その活動は科学ではないし、科学的方法のそとづらを使ってべつの価値観で価値づくりするような知性もありうるよなあ、とか考えていた。ここで遣った言葉はひとつの作品だけがきっかけではないし、いま読んでいる本から影響を受けているけれど、その影響というのは、雰囲気的なものであって、言及や批判によって表現することはできないから、もしここにその本を載せてもスパムブログアフィリエイトと同じように唐突なもので許せない。紹介とか、批判とか、そういうことって、僕にとっては強大な気遣いであって、やる愛がなかなかない。僕は日記とか随筆とか言うけれど、あるいは散文詩とでもいえばなお気障だけれど、そんな熟語じゃなくて、連想を書く、とかそういうことだ。連想というと結びつきみたいなモデルを想像できるけれど、きっかけたちは鍋のなかでぐずぐずになっていて、ネットワーク状にプレゼンテーションすることもできない。そうするには再構築が要って、批判と同じようなやつだ。
ご覧の有様とは無縁なところに、パラグラフをうまく構成して端的な文章を書くというレトリックがある。そう意識せずに伸びるままに言葉を載せていくとする。振り向くと長いパラグラフが現れる。長いパラグラフにはいくつかの主題が読み取れるかもしれない。そこで、読み取れた主題に基づいてパラグラフをいくつかのパラグラフに再構築することができるかもしれない。こうやって、散策的な書き道をとおって端的な文章構築を試みることができるかもしれない。なんだかわからないところがある。接がれた文のかたまりに、いくつかの主題が読み取れてしまうという事態が。だらだらと書いたことが、整然な文章に再構成されてしまうことがおかしい。このおかしさを説明することはできる。もともとぜんぜんわからないものを、いくらでも説明のために整理してきたのが科学の足跡だ。この喩えを伸ばせば届く。できるし、正しいかはわからない。そんな具合に納得できる。世界を理解できてしまうのは神秘かもしれないけれど、世界を説明できてしまうくらいならばほほえましい。