よみがえるための学際(米山優『情報学の基礎』を読んで)

なぜ学際というもの(総合的・融合的な学問)が必要なんだろう。下品だけれど、敵をでっちあげるとわかりやすい。科学という悪をやっつけるために、学際なのだ、っていう。なぜ悪なのか。科学は命をダメにしているから。美とか創造とか発想とかっていう、人間らしい知性を無視して見下してしまうから悪だ。だから学際は、生き生きとしていなければならない。この、科学批判と表裏一体となった学際批判、そして美と創造への志向が『情報学の基礎』の根っこの発想であると理解した。

情報学の基礎―諸科学を再統合する学としての哲学

情報学の基礎―諸科学を再統合する学としての哲学

なんで息のつまるような知性(論理や精密性)を信じてしまうのか。それは「過去の実在感」にすがってしまうからだと、著者はベルクソンを引用しながら語る。過去にこういうことが起きた。だいたいこういうことが起きる。ここに法則をみつけて、これが未来にも成り立つと信じる。怒っているひとが手を振り上げたとする。びくっとする。殴られる? そんな未来を証明する根拠はない。なのにびくっとする何かを感じる。個人的経験だろうが、科学的知識だろうが、過去が未来の根拠になっている「感じ」があって、日ごろから未来を知ったふうにふるまっている。
過去の実在感にすがってうまくいっているのが科学だ。それは科学が「物質」や「生命」のシステムを対象にするからだ。物質や生命のできごとは法則によって機械的にみちびける。だから科学は成功している。けれど「精神」や「社会」のシステムは機械の喩えでは理解できない。システムが新しいものを生み出して、さらにそのことによってシステム自身が新しくなっていくから。未来を知る、あるいは未来をつくるためには、過去の実在感という誘惑を断ち切らないといけない。科学者のある面での誠実さと、学際に取り組む難しさや決意は、こういう心理から共感できる。
情報学をつくるヒントとして、散文(哲学者アラン)、発想法(梅棹忠夫川喜田二郎)、編集(松岡正剛)、ハイパーテキストなどに著者は注目しているが、このような「生き生きとした」何かに通じる連想はほかにも出てくる。美とか創造というものを学問で扱おうという発想にはなんだか怪しさを感じるけれど、そこに至る道筋がみえた気がした。

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