AKB0048の超越性と近接性/濱野智史『前田敦子はキリストを超えた』を読んで

AKB48の近接性

前田敦子はキリストを超えた: 〈宗教〉としてのAKB48 (ちくま新書)

前田敦子はキリストを超えた: 〈宗教〉としてのAKB48 (ちくま新書)

AKB48というシステムを動かしつづける燃料は何か。それは近接性だと濱野は述べる。

近接性とは、文字通りアイドルとファンとの距離が、ときに触れるくらい近いということ。また、一方がもう一方にほどこすというような主従関係ではない、お互いが与え合う対等な関係をもっているということだ。その対等性を実現する舞台として握手会や劇場がある。狭い劇場でファンはアイドルの名前をコールする。それに対してアイドルはファンに対して目線を返す(レス)。握手会の常連はアイドルに顔や名前を覚えてもらえる。この近さはファンのよころびだけでなくアイドルとして活動を続けるための元気になる。それぞれ片方だけでは弱者にすぎないアイドルとファンが一体になれば、批判の河をも渡っていける。

AKB0048の超越性:センターノヴァ

このような近接性を味わったことのないファンを「在宅」というらしい。僕は在宅だし、というよりもアニメ「AKB0048」のファンなので、濱野の主張する近接性というキーワードは興味深くある一方で、素朴に共感することはできない。でも「AKB0048」を考える種としてありがたく頂戴しよう。
濱野はAKB48の超越性は近接性によってもたらされていると考える。他方、AKB0048においては超越性はかなり直接的に表現されている。その超越的立場は「センターノヴァ」と呼ばれる。いわばセンターのなかのセンターだ。作中では、圧倒的な輝きと一体感によってアイドルが「センターノヴァ世界」に消えていってしまう「センターノヴァ現象」がえがかれる。アイドルグループAKB0048はこのセンターノヴァ現象への畏怖をもって運営されている。向上心の強いメンバーはセンターノヴァ制度の復活を強く望む一方で、過去にセンターノヴァ現象によって仲間を失った関係者はそれぞれの目論見、慎重さ、決意のうえでセンターノヴァ現象に向き合う。このようにAKB0048というシステムにはセンターノヴァという明確な超越性があるのだが、その超越性がアイドルグループAKB0048の本質であるかというと、簡単には言い切れない。
考え味わうという観点からアニメAKB0048をみたときのおもしろさは、このセンターノヴァという超越性のあいまいさだと思う。センターノヴァ世界はある。作中の多くのアイドルはこのセンターノヴァ世界を間近にみたこともある。という意味で可知的、具体的な超越性だ。しかしこのセンターノヴァ世界が現実世界のひとのこころに実際のところどう影響しているのかというのはわからない。センターノヴァ世界は時空を越えてひとのこころを照らす集合無意識の世界だと語られる。しかし他方で、現実世界での取り組みによってもひとのこころを照らすことはできるかもしれないと、センターノヴァ世界のメンバーは現実世界のメンバーを励ます。アニメAKB0048は、現実世界に生きるアイドルたちを映した物語だ。AKB0048、芸能、アイドルの本質は、超越性にあるのか、それとも(近接性に支えられるような)現実性にあるのか、断言できない。

認知の近接性:名もなき者たち

AKB0048の超越性を吟味したところで、いったんこれは隅に置いてしまおう。AKB0048の舞台はあくまで現実世界である、と考えたとき、AKB0048AKB48と同じような近接性をもつだろうか。ここで僕がぜひとも気に留めたいキーワードがある。それは「名」だ。AKB48の近接性には、ファンがアイドルに名前を覚えてもらうという「認知」の近接性がある。ここで連想せざるをえないAKB0048のキーワードがある。「NO NAME」、「名もなき者たち」だ。「NO NAME」とは何か、という問いにはいくつかの答え方がある。これを「アイドルのファンたち」と解釈させてほしい。彼ら(我々)は「名もなき者たち」たちだ。これは「AKB48の近接性」を想像したことのない僕には自然な捉え方だった。つまりAKB0048に「認知」の近接性、すなわち「名」の近接性はないと思っていた。

AKB0048にも確かに「劇場」や「握手会」はある。しかしAKB0048の重要な活動は、芸能が規制された星々における「強襲ライブ」だ。強襲ライブは反対勢力の妨害に晒された一回限りの戦いだ。星という規模は劇場の狭さとは無縁だ。濱野の言葉を借りれば、AKB0048の規模は「世界宗教」ではないか。あくまである一面からの解釈だけれど、AKB0048は、その時代背景と規模ゆえに、かつてAKB48がもっていった「認知」の近接性を失い、ファンは「名もなき者たち」に戻った。では、これは悲観すべきことなのか。憧れのアイドルに対して、僕が名をもてない事態をどう受けとめればよいのか。これを考えるのもアニメAKB0048の楽しみのひとつだと思う、というところで、「名」の話はいったん切り上げる。

空間の近接性:立体フォーメーションと戦闘

べつの近接性についても考えよう。もっとわかりやすい近接性、それは近いということだ。空間的に近い。AKB0048は星という規模でライブする。舞台はフライングゲットという可変強襲ステージ艦だ。ファンの姿は大きな立体映像装置にも映される。この規模の大きさゆえに、ファンとアイドルの空間的な距離は離れてしまうのではないかと心配する。けれどこれは技術的に簡単に解決する。AKB0048のメンバーは「セリー」という飛行装置を乗りこなす。セリーによる空間の近接性の魅力は第1話や第9話でよくえがかれている(が、この魅力を1枚のスクリーンショットで紹介するのは難しく、「アニメ」で確かめてもらうほかない)。とくに第9話では空間の近接性が少女に夢を感染させるさまが表れている。
このセリーによる立体フォーメーションの意味は、ダンスの演出やファンとの近接だけにはとどまらない。AKB0048は歌って戦うアイドル。立体フォーメーションは敵の攻撃を分散させるための戦術でもあるのだ。この戦いというのが、じつは空間の近接性をより強固にしているのではないか。AKB0048は敵からの攻撃に対抗するだけでなく、ファンたちをも同時に守らなければならない。ときには身を挺してファンをかばうこともある(これもスクショを貼ろうとするとなんだかいかがわしくなってしまうので割愛する)。
このようにAKB0048は強い空間の近接性をもっている。ファンとの近接性がAKB0048を支えているという側面はたしかにある。自分は「ファンのファン」と語りファンを愛するメンバーもいる。けれど疑問が浮かぶ。この近接性はアイドルとファンの対等性というより、アイドルからファンへの施しに感じてしまう。

仲間とライバルの近接性

AKB0048を支えるもうひとつの近接性、それはアイドルとアイドルのあいだにある近接性だ。これを象徴するメンバーが9代目大島優子だ。9代目大島優子は常にライバルを探している。ライバルとの競争に勝つことをアイドルとしての原動力にしている。けれど彼女はただ勝ちたかったのだろうか。アニメAKB0048を最後までみるとこのへんがちょっとみえてくるのだけれど、ともかく、メンバーとのライバル関係がAKB0048を支えている側面がある。
主人公である凪沙はライバルとの競争という問題によく悩んでいる。競争にこだわる9代目大島優子に異を唱えたこともあった。AKB0048での活動をとおして、メンバーはライバルであると同時に仲間でもあることを感じていく。競争に対する違和感から目を背けず、競争の意味に自分なりに誠実に考えていくさまが凪沙の魅力だと思う。その凪沙が出した答えだからこそ、その決意には重みがある(第17話)。
アイドルとアイドルのあいだには、仲間とライバルという、似ているような、対照的なような関係がある。このふたつの関係は一体となってメンバーとメンバーを結びつけ、AKB0048というアイドルグループを形成する。これがアイドルとアイドルの近接性、仲間とライバルの近接性だ。それはAKB48にだってあるはずだ。(AKB0048風に言えば)オリジナルさしこがオリジナルぱるるを支えたように。

センターノヴァの孤独

ファンとの近接性、仲間とライバルとの近接性、これらに支えられてアイドルは夢を追い続ける。けれどAKB0048には超越性という難問が残る。明確な超越的存在がある。その一人が先代あっちゃん、すなわち13代目前田敦子だ。9代目大島優子は先代あっちゃんに「仲間」と「ライバル」を求めた。けれど近接性を超越した先代あっちゃんにその願いは届かない。ならば先代あっちゃん、センターノヴァの超越性は、いったい何によって成り立っているのか。
センターノヴァは「一体感」と「孤独」という対立する二つの言葉で語られる。センターノヴァは孤独なのか? これは僕がアニメAKB0048に対して感じる根本的な問いだ。