構成的理解

このまえ紹介した動画*1について調べて、泉和良「自作ゲームしかなくなっちゃったんですよ」というインタビュー記事を見つけて、こんなゲームをご本人が実況していたことを知った。

政治とか国防とか尖閣問題についてはほとんど何も知らなくて、このまえ『何かのために sengoku38の告白』を読んですこし興味をもった。この件を僕は「舟がぶつかってきた話」くらいに捉えていたのだけれど、sengoku38さんは「中国が日本に武力を行使する姿勢をみせた」というレベルで解釈する。この本がただちに僕の危機感を引き出すことはないのだけれど、あれだけ騒ぎになるのだから「舟がぶつかってきた話」では済まないのだろうなと思えた。
この背景がなければ、僕はこの実況動画に対して何も引っかからなかった、かもしれないし、逆に新鮮な衝撃を受けたかもしれない。どちらにせよいえるのは、この実況が僕にもうひとつの理解を与えたことだ。文章を読むことではない、実況をみるということの理解だ。この感覚から「構成的理解」(構成論的手法)という言葉を思い出しだした。つくって触ってみることで理解することだ。*2
実況プレイをみることは自分で何かをつくることではないから、これは構成的理解といえない。特殊なことは、ジスさん(作者)ご本人が実況しているということ。これによっておのずと僕はゲームデザインの解説を受けている感覚になる。ゲームの背景にある作者による尖閣問題の概念モデルと、その概念モデルとゲームデザインとの結びつきを意識させられる。つまり、尖閣問題にはどのような概念があり、それらがどう関わり合うか、またこれらをどう制御することで尖閣問題の解決を目指すか、というような解釈が、実況プレイを通して読み取れる。
これはすべて想像だけれど、ジスさんはこのゲームをつくりはじめる前から、この題材の概念モデルを確立していたということはないだろう。つくりはじめて考えながら、つくりながらテストプレイしながら、概念モデルと、それに対応するアイテム、コマンド、パラメータを調整していってつくっていった。その目的は「おもしろいゲームづくり」かもしれないけれど、その要素に「現実感」が含まれるとするなら、作者はゲームづくりの過程によってその題材を構成的に理解していく。プレイヤーにおいても、そして実際にゲームをプレイしながら、ゲームデザインの理解(モデル形成)を通して、もしかしたら題材の概念モデルをも形成していく。
このような想像から、作者がゲームを自分で遊びながら実況するという姿に構成的理解を見出した。僕はゲームをつくってもいないし、自分で遊んですらいないのだから、実況プレイ視聴はやはり構成的理解からはほど遠いかもしれない。実際に遊んでみたらわかるのだろうか。それともただゲームとして消費するだけだろうか。べつにそれも健全だけれど。ゲームで教育やろうってとき、ゲームへの理解と、題材への理解がどんなふうに関わるのか、っていう問いはおもしろそう。

*1:科学を舞台から引きずり降ろす - 反言子:『猫の彼女のESP』という小説の作者によるPVをみてかっこいいなあと思って書いた日記。

*2:構成的理解を初めて知ったのは構成論的手法 - ナレッジ・サイエンスだった(書籍版の『ナレッジ・サイエンス』を読んで)。さいきん読んだ伊庭先生の『社会システム理論』でも言及されていておもしろかった。設計研第4回 - ised議事録で伊庭先生の構成的なアプローチに対する取り組みが紹介されている。