文化衝撃

もやっとすることがあって、ものすごくもやっとしているから、もやっとしていてしかたがなくて、どうにもこうにももやっとするので、どうしたこうしたもやっとしているところで、じゃあ書いてしずめるかとなる。素がもやっとなのだから、意味ありげかたちありげに書けるはずがないすなわちもやっとしたことをもやっとしたまま書きつけることができるかという問題が塗りたくられる。ある意味ありげなものから刺激を受けてうっとなることがある。睨まれても殴られてもいないのにむなぐらとおりこしてからだのなかをつかまれて絞られる感じがある。あらためてではこれはもやっというのではなくてぎゆっという感じだ。意味ありげなものをみて、その刺激で、たいていそれは蚊に刺されている最中ほど些細で覚えがたきものであるなかで、なかにまれにそうでないものがある。それが名文であるか、ある美が溢れているかというと、その有無はあまり基準にならない気がして、優れているという印象に依ることもあれば、荒い生々しさとみなせることもある。つうじているのは、そう遠くないところに自分との接触の点や面があることかもしれない。知っていないこと、興味がないこと、ではなくて、熟知の自覚もなくて、けれどそのなさを自覚していなくて、その程度を味で知ったときに、ぎゆっとしてきもちわるくなる。知らなくてもよかった程度の興味のことだったのだけれど、知ったのなら、興味に遡及して、その程度が足りない、足りていなかった、という「じつは」と時間を越えてしまう反省で、これに現在の自分は歯が立たない。このくらいの書きでぎゆっとした味はだいぶ抜けてしまう。期限が言葉の量にある。そろそろどうでもよくなって、きもちわるさに由来しない優雅で退屈な考えごとが残る。



あったことを書きたがらないから、連想の接続する点や面はぼやけて、文章と文章のあいだに見出しが座れなくて、区切る線が幅を利かせる。

グループの近接性はスケールアウトするか。グループのサイズを増やすことでスケールアウトするというアイデアがある。疑問のひとつ、グループのサイズを延々と増やすことはできない。疑問のもうひとつ、グループのサイズを延々と増やしても近接性はスケールアウトしない、すなわちボトルネックがある。ひとつめ、グループのサイズは動物の群れに対する認知能力にされるのではないか。それを越えるとグループは業界とか社会というような全体的理解の難しい規模になるのではないか。つかみきれない全体から近接性の端をどのように見つければよいのか。この規模においてもグループをそれと境界づける中枢をどう設計するのか。もうひとつめ、グループの近接性がサイズに比例してスケールアウトするとしても、構成素の近接性はスケールアウトしない。中心性の高い構成素ほど近接は拡散する。その結果、構成素との近接に落ち零れる構成素が出る。このようにグループの全体としての近接性は、中心性の高い構成素がボトルネックになって、サイズの増加に追いつかない。もし特定の構成素の中心性を低くするように調整すると、近接性の端をいっそう見つけづらくなり、求められる認知能力はさらに厳しくなる。