時記

サブアカウントとかサブブログというものをうまく使いこす自信も意欲もない一方で、現にそういう使い分けをやっていることをふりかえる。主なものに限っても、テキストファイルの日記があり、日記のブログがあり、記録のブログがあり、気分の記録があり、マイクロブログがあり、出費の記録がある。それぞれは明らかに顔が異なるものであって、意図せずおのずと人格の使い分けに成功している。たとえば出費の記録において僕はレシートの数字を形式的なテキストファイルに転写する機械の顔になる。ここから発見できるのは、僕はことさらに表現の人格を使い分けることはできないと自覚する一方で、いつもそれに成功しているというパラドクス未満だ。



表現のチャンネルがいくつかある。チャンネルは多層的にグルーピングされるし、個別のチャンネル現象にも独自性がある。話すというチャンネルグループがある。知人と話すというチャンネルグループがある。だれだれと話すというチャンネルグループがある。だれだれといついつ話したというチャンネル現象がある。最上位チャンネルグループを考えるにしても、媒体とか対象とか言語とかいくつかの分け目が思い浮かぶ。

自分が分人の集合であるとして、分人は自分の境界の内側にあるというモデルには共感できない。分人は接触の点、あるいはそれとその先、またはその終点をも含むいずれかであると想像する。

使い分けには手間と効率化があって、どちらが勝つかが有用性だ。では使い分けないとはどういうことかというと、想像としては、次から次に壺に放り込む想像と、下に下に付けたしていく想像の二つがある。
書きと読みに手間と用があるとして、まず書き。分け目がわかりやすいほど、分ける手間は小さい。読み、分け目がわかりやすく、かつ現にその分け目に沿って使い分けられているとき、見つけやすい。
分け目が明確なときはたとえば、顔が機械になる記録のとき。これは使い分けによって統計的な読みが容易になるというおまけもある。
ひとが「サブアカ」に要求するものはというと、想像だけれど、翻って、じつにひと的な顔ではないかという印象がある。この分け目は僕にとって難しい。これが僕の使い分けに対する意識の低さの原因だと考える。
表現が、思うことと書くことの連結から成ると仮定する。分けることはどこに起こるか。思ったことを評価して、分けて、書く。先立って分けて、思って、書く。あるいはこの再帰かもしれない。分けることが思うことに先立つという想像は奇妙だが、思うことが分けに制限されると考え直すと自然だ。

表現においてひとの顔を使い分けられないと思いつつも、やはり現に、僕は日記のブログとマイクロブログを使い分けていて、これは明らかにひとの顔の使い分けである。だから「僕はひとの顔と機械の顔を使い分けることはできるが、ひとの顔を使い分けることはできない」という批判で「僕はことさらに表現の人格を使い分けることはできないと自覚する一方で、いつもそれに成功しているというパラドクス未満」を片づけることはできない。

ひとの顔の使い分けとしての「サブアカ」がなぜ僕には難解なのか。分け目の難しさ。分け行程の難しさ。そもそも分けという言葉をつくるのがふさわしいかどうか。

地に降りれば欲はこうだ:きもちよく書いて、豊かな文章ができてほしい。まずの印象はこうだ:分けは益もあれば害もあるけれど、どちらかというと害が強いのではないか。ただちに反省できる。分けはおのずと決まるものであり、分けないという制御はあがきであったり。たとえばこの日記のブログは、納得できないほどに分けの制約を強く受けている。ここに敗北感がある。

解答:僕はおのずと分けるが、分けを制御することはできない。「僕はことさらに表現の人格を使い分けることはできないと自覚する一方で、いつもそれに成功しているというパラドクス未満」を分解すると、「ことさらに使い分ける成功」とはじつは「おのずと分かれる」であって、そのうえに「使い分けることはできない」のだ。
おのずとおのずとって、じゃあどうしようもないかというと、そのおのずとおのずとのなかにも変化があって、じゃあそれをできればきもちよくて豊かな方向に誘導できないかというと、じゃあどうしもないかというと、というところで。
「おのずと」を反省することで、足跡がみえて、その想像の延長から方向が見える。そこから方向を変えられるかとか、買えるべき方向がわかるかというと疑問だけれど、見えていないよりはましではないか。おのずからの制約がより大きな意図を制限していることに我慢ならないのであれば、暴力的に制約を壊すかもしれない。その決心と納得において反省は有用である。
制御できるかはさておき、制約を見つけて、その意図を見出して、いわば手法として選択肢に置くことはなんだか理性的だ。けれどそこはどこまでも分けの領域であって、それ自体をも壊さないと不愉快かもしれない。

よさげなものは全部使うという脱制約的な制約が考えられる。連想だけれど、いまは、思った順番に、または書けそうな順番に書いていくという、脱制約的な制約を受けている。これらの制約の害は乱雑さだ。議論によって乱雑さを抑えたとする。それが本質的に単純な内容なければ、本質的な複雑さは残る。乱雑さは飛躍的な読みに寛容だ。
ただの連想なので着地点がない。

なぜ書き終わっていないかというと、書き終わった感を出したいという色気のせいだ。あるいは書き終わらないようなことを考えていたと反省したくないからだ。書き終わりのないことだから意味がないかはわからないけれど、どちらかというとそういう気がするから困っている。どんどん意味がなくなってきていると自覚するのは、もはやこの言葉が刺激につながっていないからだ。だからさっさと書き終える、というか書きやめて、また刺激があったときに書けばよい、というように期待できる。内側からの刺激がだいたい枯れている。というような反省への拒否感が言葉を薄めていく。
現実には瞬く間に帰ることができる。