人文学の未来をつくる

溶解する<大学>

溶解する<大学>

偉い先生たちの「不安」が読める不思議な本だった。だからこんな日記を書いて「応援」したくなったのかもしれない。
大学の不安、人文学の不安が、対比として読み取れる。その片一方は僕にとって「昔話」なので、「そういうものか」と聞き入れてしまいそうになるが、この対比そのものの怪しさにも気づく。

懐古的対比を打ち崩して人文学の未来をつくる

たとえば「大学」と「社会」。むかしの「大学」は「社会」から一歩身を引いた(本に出てきたの言葉を借りると)修道院だった。しかし、いまの「大学」には「社会」と同じような機能が求められ、人文知を追求するには窮屈すぎる。という懐古厨。舐め回したいほどわかりやすい対比だ。しかしここに、あらゆる「大学以外」を「社会」に押し込める大学人の傲慢がみえる。「大学」も「社会」だろう、と言える。
たとえば「制度」と「すきま」。科学というのは分野が分かれて成果が期待できて研究のための組織と設備すなわち学部がつくられることによって成長を遂げる、という「制度」化の戦略が一方にある。もう一方に、「学」的な知、人間や社会の複雑さに挑む知があり、その追求には「制度」から外れたあるいは「制度」を飛び越えた一見わかりにくい「すきま」が必要だ、と言う。「制度」化の恩恵は無視できないし、「わかりにく」さが本質にある「すきま」をデザインするのは難問だ。だから「制度よりすきまを」などと言うのは無謀か楽観だ。
大学の未来、人文学の未来は、懐古に根づいた対比を打ち崩した先にあるはずだ。じゃあどうすればいいんだ。何が要るのか。それはたとえば「方法的」な取り組みとか、「語り合う言葉」だと思う。

数値化できないもののためにあえて数値化する

「社会」は数値による評価を求めるが、「大学」の価値は数値化できないものが多い、とする。これはいわゆる葛藤であって、数値化は是か、否か、みたいな論争になる。でも、是でも、否でも、数値化という試みは必要なんだ、と言う道がある。

p.68 内田樹

評価そのもの、数値化そのものにたいして意味はないと思います。どれほど公正な数値にしようと努めても、研究の内容や教育成果の本当の数値化はできないと、身にしみてわかったからです。けれども、何が評価可能で何が評価不能かを知るためにはこれはやらなければならないことだと思うのです。

文系の学問で「方法的○○」という言葉をたまに見る。この言葉の自分なりの解釈としては「ある大きな目的があって、それに関するひとつのやり方がある。それが本当によいやり方がどうかはわからないけれど、大きな目的を果たすために、あえて/とりあえずそのやり方を試してみる」という姿勢のことだと思う。内田先生の提案は「方法的数値化」とでもよびたい。ここでの「小さな目的」は「評価の数値化」であって、「大きな目的」はたとえば「人文知の追求」だ。

学問たちが語り合う言葉を学問で手に入れる

「すきま」のデザインには何が必要か。重要なのは「すきま」という場のつくり方ではなくて、「すきま」で我々が「語り合う言葉」なんじゃないかと感じる。場と語り合いってニワタマ関係な気がするけれど、学問人の語り合いっていうのは専門知のコラボであって、それは高度な感じがして、「語り合う言葉」自体もまた学問で手に入れるしかないんじゃないかと思う。
たとえば「リベラル・アーツ」であったり、

p.61-62 内田樹

専門性というのは他の分野とリンクしていなければ意味をなさない。そのリンゲージを立ち上げるためには自分の専門性を理解してもらえるようなチャンネルが絶対に必要なんです。(中略)

自分の専門がいったい何であるかをきちんと他人に理解できるように説明する能力を育むのが教養教育でありリベラル・アーツだと私は思っています。

「生命記号論」であったり。

p.29 西垣通

ぼくは、生命記号論的な発想を基盤にして、記号学的な考え方というのをもう一度活性化できないかと思います。(中略)私は情報とは生命情報だと捉えているんです。だから人間や文化というものも、非常に大きな流れとしての、自然の中に組み込まれている。いわば、細胞がすでに様々な情報を記号として意味解釈しているということから、文化や社会、さらには機械的情報工学までを含めて考えなければいけない。(中略)そういう意味で記号学、生命記号論というものは有効だと私は思っているんです。

引用するのはタイピングがめんどうくさいだけなんだけど、その内容はだいぶ高度で、だからそれ自体「学問」であることが難しい。学際とよばれるものの難しさとおもしろさってここなんじゃないかと思う。