物語と質的モデリング

性懲りもなくAKB0048の話をするんだけど、教科書としてのAKB0048は自分的になかなかの名文で、自分にとってのAKB0048のおもしろさ、なぜ自分はこんなにもAKB0048を魅力に感じるのか、ということを、自分の趣味の則して端的に解説している。つまり、物語をみることでモデルを構築し、そのモデルを使ってさらに物語や現実をみて、それによってモデルを更新し、さらにみる、という世界観の更新を体感するという物語の味わい方である。
いまちょっと本を読んでいてあらためて思うのだけれど、自分は小説を読むのが苦手だ。なぜ苦手なのかを仮に答えてみると、ひとの名前や場所の名前がよくわからないのだ、とでも言う。それっていうのは、初めて聞く、という点で「珍しい難解な言葉」と共通している。
けど「ひとの名前」という言葉パッケージはときには優れていて、似ているのだけれど、微妙な違いがある、という微妙さを、「Aさんの○○論」と「Bさんの○○論」と言い分けて、繊細かつ劇的に区別することができる。ということを、

社会学の方法―その歴史と構造 (叢書・現代社会学)

社会学の方法―その歴史と構造 (叢書・現代社会学)

を読んで気づいた。それでもやっぱり、ひとの名前を使って観念を理解するというのは、ひとという境界を使って観念を理解する、それも微妙な境界を、という難しさがあるのだけれど、ひとの名前を避けて「××的○○論△△添え」みたいな言葉を乱立するよりかはまともな気がする。ところで、
サイバーペット/ウェブ生命情報論

サイバーペット/ウェブ生命情報論

これ読んだ。すごいおもしろくて、小説って読めないんだけど、これがなんでおもしろいかというと、これが僕にはAKB0048だから。読んでいると「西垣の基礎情報学」がちらちらと姿をみせて、僕のなかの「西垣の基礎情報学」が更新されていくのがおもしろい。物語を楽しむという姿勢としてあまりふつうじゃないかもしれないけれど、まあそれももちろんあって、ひねくれたいからモデル更新としての読みみたいなことを考えるんだろうか。
で「モデル」なんだけど、モデルとは何かというと、紋切り型で言うなら、あることの(たとえば)僕にとっての解釈、なんだけど、じゃあ西垣の小説読んで「僕にとっての西垣の基礎情報学」をあらためて記述しようかというと、そういう気にもならない。それができないという感覚。図解できるようなモデルとはべつの何かだと感じるからだ。言うならば、それは「質」のモデル、言い換えるならば「らしさ」のモデルだ。細切れに言葉にするなら、「生命」の質。「情報」の質。「生命」らしさ、「情報」らしさ。
AKB0048はフィクションであり、AKB48と異なるところがある。その異なりが逆に「AKB48らしさ」を強調すると僕は考えた。この「らしさ」が、僕の理解するAKB48であり、このときAKB0048AKB48のモデルである。だがこの「らしさ」を説明せよといわれると言葉に詰まる。図にも詰まる。それは「質」だからだ。質を図解しようとするくらいなら、アニメをそのままみろってなる。言葉にしようものなら一介の日記書きには小並感しか出せない。だから僕は、「らしさ」を解釈したつもりでいながら、それを説明できない。てきとーな言葉を遣うなら、僕はメンタルモデルを、それも「らしさ」のメンタルモデルという奇妙な幻覚をみているとしか自覚できない。
物語は「らしさ」の言葉をもっている(言葉には絵や動きも含まれる)。小説を読みにくい僕が小説を読む動機は「らしさ」のモデルへの欲求ではないかと思う。