秋葉龍一『スポーツの至高体験』感想

スポーツの至高体験(ピークエクスペリエンス・ゾーン・フロー)

スポーツの至高体験(ピークエクスペリエンス・ゾーン・フロー)

おもしろかったー。スポーツかー、うーんどうだろうって思ったけど、私的で詩的な文体から「あ、これは著者が自分の好きに書いちゃったタイプの本だ」ってことがわかって、前書きでもまさに本書は、言葉に尽くせないフロー体験を言葉で表現しようという試みであると述べていて(サブタイトルにもピークエクスペリエンス、ゾーン、フローという3つの類義語が上がっていて、本書では主にピークエクスペリエンスという言葉・概念がフォーカスされていますが、個人的にしっくりくる言葉を選びます)、つまりこの本はフローの解説書(だけ)ではないし、フローを追体験させる文芸(だけ)でもない、著者の内省(だけ)によるフロー本ではないし、インタビューによる標本収集(だけ)のフロー本でもない。「フローを言葉で解説しきることはできないし、言葉で(そこにえがかれている)フローを(追)体験させることはできない」っていう前提のもとで、いい脱力して「フローについての文章と戯れる」ための文章として飲み込めるとわかったね。

収穫というか、やっぱり、といってしまえばやっぱりなんだけど、やっぱりこれだけ超一流のプロフェッショナルの事例を通してもなお、「作為的にフローに入る」ということはやっぱりできないんだ、っていう納得。(著者は卓球やってた人らしいので)ワルドナーが(フロー体験みたいなのをしたことは)「ない」と答えたというのは鮮烈すぎて笑えた。そのくらい「と思って」できるものではないんだと。その「てやろう」という意識が本書では「自我」と書かれている。自我の抑制も自我の成熟もどちらも大事だけれど、いまの世の中はだいたい自我の圧力が強すぎてフローを潰してるよねと。

スポーツは「重力とのたわむれ」であると。(僕はスポーツの回顧ではないけど)わかる。フローに入ってるときの感覚って「せる」「ける」じゃなくて「る」「く」なんだよなあ(言葉を隠しすぎで恐縮ですが何かしらの動詞を当てはめてもらえれば)。その状態って「てやろう」じゃ本当にもっていけないんだよね。じゃあ諦めて何もしないでいればいいのかというと。そこが難しい。でもそこをなんとかする「技術」はあるとスポーツ心理学を引いている。

立花隆河合隼雄松岡正剛とかの名前の並びもにこにこしながら読めた。「光のラインが見える」的な話、これはスポーツ物の少年漫画とかがある種リアルティをもっているのかもなあ。『ライジングインパクト』の「ギフト」なんかはこの種のフロー起因の能力を恒常的なアビリティとしてセットしたものだし、あとほんと『スプリンター』はまじでフローをぎっとぎとに描きまくってるすごいマンガだと思うんですよ……。スプリンターで描かれる「野性」は、なんの比喩もなく本書でいっている「野性」と同一ですね。

「一体感」という言葉が嫌い/苦手です。文脈フリーでいった場合だいたいは「(みんなとの)一体感」っていう響きがするんだけど、それが。フロー的な「(環境との)一体感」っていう意味でなら、それは。「融解感」とかっていいたい気もする。

サーファーのコミュニティは、祭りによるハレという名のピークエクスペリエンスを共有するムラ社会と同形である、という(本書で幾度と引用される著者の師匠的な吉福伸逸さんの)意見がおもしろい。ある種の娯楽における「沸く」とか「ぶち上がる」とか「ガンギマる」とかっていうボキャブラリーはこういう体験を小気味よく表現していると思う。

あと「うまくないと楽しくない」的な、ハイキューでもいってたね。それは、技術レベルが低いと自我が強くなってしまってフローに入れない、高いと心身が自由になって入りやすくなるから、っていう冷静な説明。でも強いひとなら入れるわけではなくて、自分の能力に合った力の中で入ることができる、入って現にできた(⇒コツを知る)ことで技術が身につくこともある、っていうのはモチベになります。

最後らへんの「夢」の話とかはなかなかスピリチュアってくるけど、それまでのフロー周りの生々しさが混じってそういう感性もおもしろいかもなあと思えた。僕、ストレスフルなときに昼寝してみた夢ってだいたいなんかすごくて、それでほああああってすっきりすること結構あるんで、でもそれがフローと接点をもちうるという発想はなかったので、そういうのもなんかおもしろいかもなあと思った。

あとフローと観客の関係も興味がある。観客がシャットアウトされるのがゾーン的なのかもしれないけど、観客の視線が「糸」になったという話なんかはめちゃおもしろかった。

久しぶりに楽しい読書だった!

スポーツの至高体験(ピークエクスペリエンス・ゾーン・フロー)

スポーツの至高体験(ピークエクスペリエンス・ゾーン・フロー)