楽しめないことの自己追及感について

「楽しめないコンプレックス」というのはおもむきがあって興味深いので、楽しめないというリスクとのつきあい方について考えてみます。結論は「楽しめるかはどうかは運にも依るので、楽しめない原因が自分自身だけにあると思うのはやめよう」です。


楽しめなかったとき、期待していて楽しめなかったときと、期待がなく楽しめなかったときでは、期待していたときのほうが悲しいと思う。楽しめなかったときの悲しみを小さくするには期待をなくすのが効く。「期待しない」といってしまうと、期待を過度に低くすること、「つまらないだろう」とか「今日も楽しめないだろう」みたいなところまでいってしまいそうになるが、期待について考えないという程度の着地もあると思う。ただし何かを気にしないことに注意するのは一般に難しいので、別の気にできることに注意を払うとよいでしょう。

リアルイベントとあえてよぶほど、「やっぱり」リアルイベントに価値が見いだされている風潮はあると思う。彼らは人々が楽しめることを楽しんでいると推察される。それを私が模倣できることは自明ではないと考えると見通しがよい。彼らは空気が振動したり光が明滅する大きな室内または屋外において、それを感覚し、また自身がその現象に干渉し、その結果をさらに感覚することによって快さを覚える。その往復がノイズを払いきって意識する必要もない安定に入った状態を一体感とよぶ。私もまたそれを得られることは自明ではなく、彼らを訝しむ必要もべつにない。

彼らまたは私が楽しいと思うに至る要因はそれだけではない。普遍的なものではないし、特定の要因が私に適合しなくても不思議ではない。それがひとつもないと思うのでないなら諦めていないことになる。それじゃあ。

楽しいというのはいま楽しいか楽しくないかと判定できるものであるとは思うけれど、ある同じ刺激を受けるとしても決定できると限らない。その状況に至る経緯、あるいは体調なんかで同じ刺激が楽しいことも楽しくないこともある。個人的には、楽しいはモードであると感じる。そのモードに入ったときは快い刺激の範囲が広がる。

思うんだけど、刺激には楽しいモードに入らせる力のある刺激があって、それによってモードが変わる可能性が上がる。だとしたら幸か不幸か、刺激の構成によってトータルで得られる楽しみの量が大きく変わることになる。(A)「モードに入らせる刺激」と(B)「モードに入ったときにだけ快い刺激」があるとしたら、(A)は(B)のすこし前に構成されていると得だ。他に(C)「モードにかかわらず快い刺激」と(D)「モードにかかわらず快くない刺激」が挙げられる。(A)と(C)は親しい気がする。期待に失敗すると(A)の範囲は狭まりそうだ。期待が適当だと思わぬ刺激が(A)になってくれたりする。モードが強化されると(B)の範囲は広がる。モードに入っていないときの(D)は不快かもしれないが、モードに入っているときの(D)は「なんとも思わない」域に収まるかもしれない。

刺激の構成によってトータルの楽しみの量が変わるとしたら、私がひどく何かを楽しめなかったとき、それは刺激の構成が悪かったからだ、といえる可能性がある。私が楽しめるかどうかは自分の制御できない要因たちによって左右される。運という。

私にとっての(A)「モードに入らせる刺激」(面倒なので「きっかけ」と書く)が、ある好きな楽曲を鑑賞することとしよう。それが(B)を広く取り込めるところに配置されれば勝ち、されなければ負けだ。どこにもなくても負けだ。たとえば地下アイドルの対バンライブでお目当てのアイドルの持ち時間が15分だったとしよう。曲は3曲、ごくまれに4曲だ。きっかけは比較的よく披露される曲だろうか? そこに至るまえに(B)や(D)に埋め尽くされたらどうしよう? きっかけ自体にもレアリティがある。希少なきっかけしか持たない者には強運が必要だ。

会場への入場順がくじによって決まるとしよう。くじ運がいいと早く会場に入れて、好きな場所に陣取ることができる。くじ運が悪いと身動きもとれず見たいものも見れない場所に押し込められるかもしれない。これによって私が楽しめるかどうかが左右されるように、思える。ここは繊細なところなので慎重を期したいのだけれど、この不確定性にはそれ自体にも娯楽性がある。私は「くじ運がよかったからうれしい!」と思うかもしれない。

私が楽しめるかどうかは、ある程度の運に依存していると思う。その程度は、私の運に対する敏感さや、私を楽しませるきっかけの希少性によって変わる。逆に、これらを制御することによって運への依存度を軽減できるかもしれない。

「くじ運がよかったからうれしい!」を求めてその箱に通うとするじゃん。くじ引きに行ってるの。(たとえば)ステージ上のパフォーマンスを見に行ってるんじゃないの。このゆがみはささやかな内省によってやわらげられるかもしれないけれど、ずっとまとわりついてくる。くじ運への依存度を下げられないだろうか。たとえばAKB48劇場における「お立ち台」(会場の一番後ろにあるすこし高い段になった不安定な立ち席)とか、地下現場における「最前端っこ」(演者との距離が近く見やすく、場を盛り上げる責任を負わない位置)みたいな、人気があるわけではないがそれを好む人には大きな満足を与えるような、自分にとっての穴場がどこかにあるかもしれない。それを見つけられれば、よっぽど運が悪いとき以外は大きな不満がないという状況を作れる。

めったにセトリに入らない曲を期待して映画の予告編みたいな持ち時間しかない地底現場に行くとするじゃん。どうせ確率的に満足できないんだからもっとまともな現場に移ればいいじゃん。でも無理じゃん。だから「それが(確率的に十分に小さいという意味で)無いことは知っているけれど」って失望を最小化してみたり。持ち時間が長いライブを選んだり。きっかけを増やす試みもいろいろある。くじ運よりもセルフコントロールできる余地が広いなら健全なんじゃない。


わずかな例ですが、楽しめるかどうかは運に依るという面を考えました。私が楽しめるかどうかは、私のなかにある真実味のある何か(感性とか情緒みたいな)に関係すると思いますが、それだけによって決まるわけではありません。運にも、純粋に確率的なものから、自分が関与する余地があるものまであります。余地を埋める試みをしてもいいですし、まったく別のゲームに乗り換えてもいいです。私は、私が依存している運の性質を知って、作戦を考えることができます。

「私は人々が楽しめることを楽しむ人々のように楽しめない」という悲しみは、心情的にはわかります。しかしそれはゲームの前提条件にも思えて、感想を作るのはもっとあとでもいいんじゃないとも思います。楽しめない要因が100%自分の内側にあると考えるのも不正確です。でもわかります。

楽しめない人々が「楽しめない」とうまくつきあえますように。