受験記001日目より、試験現代文について

受験記001日目 2005-09-14(水)より抜粋。

試験現代文にはすばらしい文章はでない。設問がつくれないからだ。やや悪い文章を出してくる。ゆえに、試験現代文を文章の参考にしてはならない。そういえそうだ。
はたしてそうか。文章を読むというのは、そもそも簡単でない。考えることや、書くことにおいて、すでに簡単でないからだ。しかしだからこそ、読む技能を養うこと、読み慣れること、深く読み込むことで、表現しにくい意味をみずから汲み取ることができる。試験現代文にはたしかに、わかりやすくおもしろく正しい、お金を出して買いたいような文章はでてこない。嫌だなと感じる言い回し(学術的な訛り)も多くある。だが、そこにかかれている内容、汲み取りうる意味は、おもしろく正しい。汗を出して解したいような文章がでてくる。わかりやすいか、わかりにくいかというのは、言葉になっている部分を解する段階の話でしかない。それをふまえたうえで意味を汲み取るのは、なににおいても難しく、だがそれだけの手応えと価値を得ることだ。
試験現代文の解説を読んでいると、なかなか納得できないことは多々ある。しかし、読むとわかるのだ。一見別の言葉で、しかしたしかに同じ意味が、語られている。読めていなかった。いまは読めた。試験現代文には解説がある。このような援助はほかでは得られない。読み方を学ぶさいこうの教材である。それでさえ難しい。ましてや、みずから読もうというときには、なまじわかった読めたと停止してよいものか。達成でなく、明らかに停止なのだ。

(後記)しかしだからこその用法が強引な気がする。この接続詞はかなり強力なだけに、使いどころに注意したい。わかりやすいか、わかりにくいかというのは、言葉になっている部分を解する段階の話でしかないというのは、気に入った言い回しなのだが、冷静に考えるといくらでも反論ができる。続くそれをふまえたうえでの意味もわかりにくい。いま分析してみると、どうやら「意味」の意味を「文法そのままの意味」(読むもの)と「書き手の気持ち」(汲み取るもの)で混同しているのが原因だろう。わかりやすさはどこにあるのかと考えるのもおもしろい。わかりやすさが、ある、というのは、変な言い方だなあ。
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