体験から書かれた日記は新しい知的発見で、自分語りによって視点が広がる

ちかごろは日記よりも随筆という呼び方を好んでいます。体験して、感じたことを書けば、それで随筆ってよべるみたいですよ。お買い得ですね(?)。随筆の書き方は清水義範『大人のための文章教室』が参考になると思います。「書くことは考えることだ。考えよ」という正統派の文章読本とは違って、ごく具体的な書き方をていねいに解説してあります。
僕のなかではこういう位置づけです。

【1】書くことは考えることだ
『伝わる・揺さぶる!文章を書く』
【2】考えることは型だ
『ホンモノの思考力』
【3】そして、こう書け
『大人のための文章教室』
日記とよぶか随筆とよぶかは趣味の問題ですけれど。ひとつ思うに、「すばらしい随筆だ」と感じるのはあるけれど、「すばらしい日記だ」というのは変な感じがするなあ。
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さいきん「すばらしい随筆だ」と感じたのがこの文章です。それに劣らず、コメント欄もおもしろい。essaさんの文章が随筆(個人的な体験)であることを踏まえたうえで、「体験」と「一般論」のあいだを論じるのは、とても刺激的です。

例のごとく見出しをぜんぜん消化できていないわけですが。「知的発見」も「自分語り」も。さいきんはどんなWebサイトも結局は自己紹介にしかならない[304 Not Modified]というように、かなり広義で「自分語り」が捉えられているようですね。ただ僕としては、作品に対する感想の中で自分の事情について語る[ARTIFACT]ことが「自分語り」だ、という印象が強いです。作品というのはウェブ上の記事も含めて考えています。自分語りするニュースサイトとして明日は明日の風が吹くさんが代表的だと思います。
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なにを「自分語り」とよぶかはひとの趣味によりますが、これは随筆だなと感じたものは随筆とよびたい。なんか「随筆」っていう見慣れないじづらがすてきだ。僕にとって「自分語り」というのは「言及の手法」で、あまり多用しようとは思わない。それよりも体験があり、そこで感じて、考えて、書きてえなと思うことがたくさんありすぎて、随筆書きたくて、「自分語り」してるひまないです。受験生の特権? 受験生は感受性が豊かです。そんな一般論ないけど。話がそれたね。見出し倒れだなあ。じつはあんま受験生っていいたくないけど。合理化みたいなものだ。ああ、これは、日記ですね。

なぜ文章を書くのかということ、忘れられるようになるからだ。二度と再現したくないけれど、でも失いたくない。そういうときは文章に書いてさっさと忘れてしまうのがいいよ。

こうやって何気なく書くと、いかに「文章を書く」と「文章に書く」の区別が無意味かがわかる。区別が効果をもつのは、対立のある場合においてだろう。

きょうは学校でプレゼンをやりました。一人称は「僕」にしました。なぜなら、「僕たち」という言葉を、視点を、伝えたかったからです。

「他人の立場に立つ」ことと「自分の身になって考える」ことが同義なのはおもしろい。国語の授業で、それが「自己中心的利他性である」ドカーン、「そして人間は自己中心的利他性から脱することができない」ズバーン、と習ったけれど、それ、「思いやり」ってよべばよくね?とか思う。あのひとが、されたい!だからしたい!と本気で思ったことを、してもらえるんだよ。どきどきするよ。うれしいよ。

(受験記001日目 2005-09-14(水)より)
●自分のわからないことは思いやれない
思いやりとは、思いを、やることだ。
放課後の勉強。ため息をつくクラスメート。椅子をひく。ギーギー鳴る。うるさい。だが不快でない。みんなつらいんだよ、とか、みんな暑いんだよ、とか、なにそれ、って思うけれど、この瞬間においては、わかる気がした。自分がいままさにそうであるからだろう。むしろ、僕の代わりにおこなってくれた、代弁者。行動をもって代弁する。
思いやりとは、実感を、代弁してもらうことだ。

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