現在と未来、世界と格差、情報と機械と人間

未来はあるものでなく、その未来に「する」という意思、その未来に「なる」という結果のみを語るに尽きる。もちろん、あるべき姿に必ずしもできるというわけではない。意思の関わる余地なく結果がみちびかれたのだとしたら、それこそ未来はあると断言されてしまう。それでもなお実力と実験によってあるべき姿を切り開く姿勢はまさにフューチャリストとよぶにふさわしい。



オタク文化に価値はあるのか、ということをふと電車で考えた。オタク文化の定義はひとまずおいておく。オタク文化の価値は内側からしか、つまりオタク本人にしか評価できない、というありがちな結論に落ち着いた。それでもなお客観性というものにこだわるなら、世間におけるオタクの割合を気にすればよいのだろうか。オタクは多い、したがってオタク文化はより広く評価される、よってオタク文化は大きな価値をもつ、のか。数やバランスは関係ない、と僕は思う。構造主義的だ、文化相対主義だ、と思ったが、よく意味(背景)を知らない。しかし、文脈から浮かび出て深層意思に染み込むのが、近代と現代のあいだにある思想というもののあり方である、などとよくわからないことを考えた。
さらにオタク文化にも様々ある。多様化の著しい昨今である。言葉の分類は上っ面に過ぎない。そのあいだにあるキャズムはなんともいえない違和感によってのみ実感に足る。ドッグイヤーによって技術の進歩が社会の変化を促しているのだとしたら、ごく当たり前の整合として、世代の移り変わりもドッグイヤー化するのではないだろうか、と考えた。いや、違和感に説明を与えようとしたら、そう考えられた。細かい定義はここでも省くが、僕はケータイ世代のきもちなんてまるでわからない。しかしこの僕のきもちだって、彼らに、そしてその逆ベクトルにいらっしゃるみなさまにだって、きっとわからないだろうと思う。もっとも、そのことを自覚した上でなおもギャップを埋めようという意思または試みをもつみなさまであれば、たいした問題はないように思えるが。
彼らにとってモノスゴイ文化は、彼らにとって価値があるのは自明。しかし僕にはわからない。だから、彼らはナンダカスゴイ。ならば、僕はオクレテルのだろうか? 感性の違いは世の中と生き様の違い。自覚したときにはもう別の世。いったい、僕はいつに生きているのだろうか。わからないということをわかって生きていくのか。わかることをだけわかって生きていくのか。なんだ、全部わかってるじゃないか。

ポジティブであること、ネガティブであること。ひとつのテーマにまったく逆のスタンスが対立するというのは、ニュートラルなきもちで考え直すと、狂っている。常識的に考えて、分かり合えるはずがない。そんなことで悩むのはわれながら純粋である。
ひとが対立するのではない、スタンスが対立するのだろう。政治における思想の違いだって、議論のためのチーム分けに落とし込まれる。主張とはパフォーマンスなのかもしれない。大人の世界の不協和は、なんだかんだで議論や思考のテクニックに変換されやすいかたちをとっている。わたしはポジか、ネガか。その両方に触れたわたしが、その一方に傾ききるなど狂気。わたしは考える。
この国は、どうなのだろう。どうなのだろう、って、どうなのだろう。この国、という視点はデカイ。しかし、世界のなかではちっぽけだ。何かがオカシイ。常識的に考えて、にっぽんいちはすごい。しかし、たがかにっぽんいちとも言えてしまう。わたしにとっての国、世界にとっての日本、月とすっぽん。ならば、わたしは世界一を目指さなければならないのか? 違う、と思いたい。たくさんのひとが国を誇り、にっぽんいちを目指す。それが、世界に通用する日本の力だと僕は思う。ずいぶんと甘い考えかもしれない。
格差がより鮮明になってきた。これからもなっていくだろう。評価や報酬がより正しいあり方に向かっている証拠ともみれる。とても健全である。だからわたしは覚悟しなければならない。もうだれも自分をごまかしてはくれないことを。自分ですらも、だ。わたしは、この現実を知ってしまったのだから。
ちなみに、そのきっかけは本だけではない。その点について、感謝は尽きない。

情報と機械と人間。これらはどういう関係にあるべきか。とても深遠な問いだが、とりあえず僕はこう思う。人間が中心にあるべきである。コンピュータが知性をまるごと再現する必要は感じない。ひとの知性をサポートするものとして考えたほうがわくわくする。そこにはわたしがいるからだ。だから、橋本さんが「人海知能」*1という言葉を遣ったときは目から鱗だった。
しかし、これは情報が機械的な価値観に強く依存することへの反論としては決め手に欠ける気がしてならない。人類の立ち向かうべき仮想的としてGoogleを掲げてみるのもおもしろいかもしれない。いま、情報は人間のためにあるか。機械は、人間のためにあるか。
考えるにも、何かをつくるにも、いまの僕にはあまりにも何もかもが足りない。いまどこに立っているか、どちらを向いているかは、知っておきたい。その生ぬるさが、この現実にほかならない。
虎ッ狩 - 高城剛::「引きこもり国家」日本
フューチャリスト宣言 (ちくま新書)

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とてつもない日本 (新潮新書)

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ウェブ社会をどう生きるか (岩波新書)

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*1:第3回WebマーケティングROI Dayの対談にて。資料やコメントは近いうちに各人のブログに載ると思います。橋本さん:情報考学 Passion For The Future。神田さん:KandaNewsNetwork