暗黙知のリバース・エンジニアリング:全体←部分←部分←

暗黙知」って思ったよりも興味深い考え方だった(西垣通集合知とは何か』を読んで)。身体的な技能、手続き的な記憶、というものが暗黙知だろう、という程度のイメージだった。けれど、何が暗黙かっていうと、全体に対する部分に対する認識が暗黙的というのが、暗黙知の要点らしい(西垣によるマイケル・ポラニーの解説)。たとえば自転車を漕ぐという全体における、ペダルをどんな角度でどのくらいの力で踏むかという、部分。たとえばひとの顔を見分けるという全体における、目元はこういう特徴でそれと口元はこういう特徴でという、部分(だから暗黙知は身体知だけではないとわかる)。自転車の練習をするとき、初めて会ったひとの顔を覚えるとき、そういうときは、このような「部分」に注意を払っていたはず。いざ全体を理解できれば、それからあとは部分を気にしなくなる。全体を理解できるとき、いわば部分は隠れる。暗黙知っていうからには意識されない知なんだろうけれど、じゃあそれはなんだっていうと、全体を理解するときにおける部分に対する理解、と明確になっておもしろかった。
もっというと全体は部分のいろいろな組み合わせで成り立つ。だから部分が隠れるというのは、部分と部分の関係が隠れるということでもある。組み合わせは無数にあるけれど、全部隠れて、それなのになんだかわからないけれど全体は理解できる。トレーニングは意識してできることを無意識化することだよ、っていうようなアドバイスを聞くけど、何を、っていうと、部分と部分の組み合わせだ。
関係に注目するというのは、たしかパターン・ランゲージの発想にもあった気がする。
かたちは関係で成り立つ。レベルの異なる部分に共通点があるとしたら、再帰的なかたちだろうか。
部品、要素のバリエーションほど、関係にはバリエーションがない気がする。だから、部品、要素をカタログ化するよりも、関係をカタログ化するほうが現実的な気がする。
知識、スキル、ノウハウを、教材化する試みは無数にあると思うけれど、注意点としては、

  • デキるひとにとっては隠れている部分にあらためてスポットを浴びせかけないといけない
  • 「隠れている部分」とは、文字通り「全体に対する部分」である
  • 全体は、部分と部分とのあらゆる関係によって成り立つ

暗黙知のレクチャーの例(特に後半)

一連のコンボが全体であるのはまあ間違いないとして、動画ではこれを二つの部分に分けて練習することを進めている。
ところで、全体と部分の関係は再帰的に掘り下げられることがわかる。動画では、視聴者の習熟度を想定して、まあ二つの分解で十分だろうというていで進めている。実際には、前半は三つの入力、後半は二つの入力によって成り立っている(その「入力」もさらに分解できる)。学習者の習熟度をどうやって把握するか、それに応じてどこまで部分レベルを掘り下げるか、というのもレクチャーの注意点になりそうだ。
また部分関係という点では、前半と後半が、それぞれ関係の深いまとまりなのだろう(この場合の関係とは時間的な前後関係だが、先行入力がどうとか言い出すともっと複雑な関係になるのだろうか)。部分もまた部分関係によって成り立つのだから、部分の見極めも大事。

西垣通先生は難しい本も書いてるけれど、この本は、そういう難しい内容の背景にある西垣先生のメッセージを感じとれるのがよい。