「あなたは多様性がない」はありうるのか

多様性を押しつけるのは多様的ではないっていう歩きづらさって書いて気づいたんだけど、「多様性を押しつけるのは多様的ではない」っていうのはべつに自分にとって問題ではない。多様性を押しつけたい欲求がべつにないので。多様性を押しつけるような外敵と対峙したときに「おい、そういうふうに多様性を押しつけるのは多様じゃないぞ、お前はオレに多様性を押しつけるな」と反発する(かもしれない自分の)多様性のなさがむしろ問題なのだ。これをディベートで解決するのは無理筋で、そのとき鍵括弧の左側でどうあるかという問題だと思う。しかし考えてみると多様性はシステムのどのレベルをみるかによって変わるもので、たいていの文脈で多様性はひとびとに問われる。それをなぜかひとのレベルに凝縮して「私の多様性」みたいに語るのはミスっている気がする。すなわち「多様性を押しつけるひとは多様的ではない」ということはいえなくて、多様性を排他的に一様に押しつけるひとびとの力学系に多様性がない(という結果に至りがちである、たぶん)ということが問題だ。ということは「多様性を押しつけるひと」はそもそも(それ自体で)問題(とみなすことができるわけ)ではない。
そうか? いいえ。個人に多様性を感じることはある。はじめちゃんは明らかに多様的だ。ここにおける多様性というのは「多様であること」ではなく「多様であることへの親和性が高い性向」として解釈できると思う。そうなると多様性とは独立して個人の多様親和性みたいなものを議論できるのかもしれないけれど、こうあれば多様親和性が高い、みたいな一様な価値判断を形成することは多様的でないね、っていうメタトラップも散らばってそう。でもそれは価値判断というよりも自然科学的なものかもしれないし。