想像力

あることにとりかかるために必要なやる気があることをしはじめてから起こるように、あることに踏み込むために必要な自信があることを達成してから生じるように、えてして精神性というものは苦しいときに限って無力だ。そういう溝を跳び越えてやる気や自信をつかみとることを「想像力」とよぶことが多々あって、そういう文脈でこの言葉を遣われるとじつに心苦しいばかりである。おれには想像力がない、文脈からはがれ落ちて漂うこの文句が気を沈ませる。でもそういう想像力っていうのが大切なのはもっともで、実際、その力は実質をともなう。つまり、先取りしたやる気はもはややる気そのものであり、自信そのものであり、僕のこころを満たしてゆく。仮想という名目はもはやその意義を失って、ただこの閉鎖した精神において事実そのものとして機能する。そう考えると、根性論という発想はその反対へと指向するという逆説性を読み取れる。また語ることの非機能性にも至る。つまり、ある状況からべつの状況への指向そのものが、すでにべつの状況においておこなわれているとき、ただ手放しに達成を喜ぶことはできても、そのリアル性を表現するところにはたどり着けないもどかしさが残る。もっといえば、そんなもどかしさは幻覚にすぎず、その存在そのものが状況からのずれを証明している。つまり語れない。