気分制御のための言葉繰りに対する嫌悪

「社員にはネガティブな言葉を遣わせないようにしています」というようなアレに、うわっ、うわ……、うわあ、みたいに思ってしまうのはなぜかを反省する。

  • ネガティブな気分やネガティブな言葉には風情があるから
  • 気分の制御は仕事上の都合に左右されてはいけない不可侵領域であるから

ある状況において「ネガティブな言葉を発するのを控えようか」と思いついたことがある。なぜ僕はこの自覚に対してうわあと思わないのか。

  • その言葉繰りはまさに味わっている気分をは左右しないから
  • その言葉の向かう先に他人を想像しているから

気分と言葉の関係を簡単に分割する。

  1. 気分がある
  2. 気分を言葉にする
  3. 気分の言葉を発する

「社員にはネガティブな言葉を遣わせないようにしています」という統制は、「気分の言葉を発する」を制御することによって「気分がある」ことを制御しようという思惑を秘めていると邪推する。僕は「気分を言葉にする」ことまでは仕事上の都合に対して不可侵であるべきだと感じる。ゆえにうわあとなる。
僕が僕の思いつきにうわあしないのは、「気分の言葉を発する」を統制するのみだから(おのずと影響がフィードバックされるかもしれないが、それは思惑ではない)。ではなぜこれを不可侵であるべきと考えないのか。「気分の言葉を発する」は他人の不可侵領域を刺激するからだ。僕が僕の気分を尊重するならば、僕は他人の気分を尊重しないと、気分がよくない。
言葉繰りによって自分の気分を制御しようという自己啓発は勝手になさればよいと思う。それを他人に仕向けることにはうわあと思う。言葉繰りが他人の気分を刺激すると考えると、自己啓発のレベルが上がる。このレベルアップは結局的には自分に対する尊重への貫き感を強めるというあくまで個人的自己啓発に戻ってくる気はするけれど、気分はたしかに晴れるのではないか。