知識が生き生きとした関わり合いのなかで刻々と変わっていくということは

下の二つが『集合知とは何か』における西垣通の主な問題意識であると思う。

  • 情報現象とは、情報から意味を受けとって生命が変化すること、および生命に解釈されることで情報の意味が変化すること、これらの変化の再帰的な繰り返しである。生命による解釈から切り離された情報(機械情報、データ)は意味がはぎ取られた情報であって、生命にとっての情報とはもはや異質なものである。だから生命による知の形成を支える技術には、旧来の情報技術に代わる新しい発想が必要である。
  • 生命とは自律的にみずからの境界を定義しつづけるシステムである。境界を越えて外の情報が直接システムのなかに入ってくることはありえない。生命は外の世界を学習しているのではなく、外からの刺激を混乱せずに解釈できるようにシステム自身をつくり変えているのである。その結果、システムの内部構造はシステムの数だけ多様になる。これらの多様なシステムがコミュニケートすることで、より大きなシステムのなかで情報の意味が形成される。だから大きなシステムのなかで知を形成するには、そこに含まれるシステムの多様性を守ることが重要である。

これはすなわち基礎情報学の問題意識でもある。『集合知とは何か』は、読んでいて、これは集合知の本なんだろうか、という疑問が出てくる。ある種の集合知、いわゆる群衆の英知、すなわちWisdom of Crowdsに対して西垣は批判的だからだ。けれど考えるほどに、やはりこれは集合知の本なのではないかと感じてくる。
西垣は、生物、組織、社会、そういうかなりスケールの異なるシステムを、階層的・再帰的にスマートに理解するために、生命情報とかシステムの閉鎖性みたいなけっこう難しい概念を編み出している。けれどそのおかげで、生物にとっての知と、組織にとっての知は、本質的には同じなんじゃないか、という示唆を与えてくれる。いってみれば、知とは本質的に集合知なのではないか、集合知とは本質的に知なのではないか。そんな予感を授かる。
で、実際問題、どうすれば(単なるWisdom of Crowds以上の)これからの集合知を実現できるかというプランは、本文にもすこし書かれているのだけれど、西垣の語り口はわりと楽観的なものに僕は感じた。たぶん要点は、多様性を維持したうえでのコミュニケーション(+その再帰的な階層化)、なんだと思う。これを信じるには、個人(自律的な思考)というものに対する力強い希望が要る。なんでWisdom of Crowdsがバカみたいに「独立性」にこだわるかということの裏返しでもある。
思いっきり個人的な好みでいえば、独立性から得られる集合知なんて、ふん、美しくない、という感じなのだけれど、まあ生命システム的な集合知っていうのも難問で、そこが問題としてのおもしろさかなあと、とりあえず落ち着けておく。



以下は自分用の言葉の整理。
やっぱり西垣の「閉鎖性」というキーワードは、かなり誤解ビリティが高く感じる。「独立性」と並べるともはやわけがわからない。ちょっと整理すると、Wisdom of Crowdsにおける独立性とは、人間ひとりひとりの多様性を守るための工夫である。その前提は、独立性を解除すること、たとえばおしゃべりすることによって、多様性が失われるということである。これに対して「閉鎖性」は、そもそも人間は閉鎖的なものなんだ、という、いわば信念だと思う。この閉鎖的というのは、感覚的にいうなら、自分にとって大事なことが何であるかを自覚していて、ひとの意見は自分なりにかみ砕いて考える、という性質だ。思いっきり対比的に書くなら、ひとは閉鎖的だから独立性を守る工夫などするまでもなく多様である、というのが西垣の立場だ。
だいたいWisdom of Crowdsの条件として、三文字程度のキーワードを並べて説明しようというスタイルがヤバい。

  • 多様性
  • 独立性

こう並んでいたら、みるからに並立関係だ。でもやっぱりこれは西垣やスコット・ペイジが批判するように「多様性というWisdom of Crowdsの本質的条件を確保するためにメンバー同士が独立するように工夫しなければならない」という程度の理解が最低限のところだろう。
あらためて整理すると、Wisdom of Crowdsも、僕(西垣)たちが思い描く生命システム的な集合知も、多様性という要件は共通していて、前者は反コミュニケーションという処世術を採って、後者はコミュニケーションという難問に挑むものである。



西垣のメッセージに自分勝手に共感するなら、ひとに流されない気むずかしいあなたはじつに生き生きとしている!という賛歌に聞こえて、耳心地がよい。

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