境界づけ

境界づける。
境界:A/非A、A/B
例:できる/できない
できるとできないの境界を限界という。俗に:できないと思っていたことができることを、限界を超えるという。飲酒に対する耐性を経験的に実証することを限界を知るという(ばかげている)。
できるからできないに移り変わった瞬間にラインを引くと限界が引けるのだろうか。ならば限界を知った瞬間は、できるとできないのどこにいるのだろうか。一瞬、限界の向こう側にいるのか、それとも境界線上にいるのか、またはなお内側にいるのか。
限界を引くことの俯瞰的な想像図は、できる領域とできない領域を分ける。できない(面積をもった)領域は経験的に確かめられない。しかし値がスカラなら境界値の「以上」とか「未満」として記述できる。
「できない領域」を想像すると、「限界を超えた世界」が導かれて、中二病的でカッコイイ。
逆の想像は、境界を消失線とすること。それもグラデーションで薄まる。ここでの探検は、薄いほうへ薄いほうへ、何も見えなくなるまで進んでいくこと。その向こう側は、どこまでいっても何も見えない。
個人的な限界は比較によって引ける。他人のできる領域は、自分にとっての可能なできる領域であり、それができないとき、できない領域として想像図にえがける。
原理的な限界はそのやり方で引けない。現実のできる領域の和は、可能なできる領域をすべて含む保証がない。
みんなは日常的に限界を超える。経験的に確かめられないできない領域は中二病とみなせる。この違いは、限界領域が個人的なものか原理的なものかの違いではないか。日常に、原理的な限界を議論することは珍しい。
中二病的な限界議論はカッコイイと思う。超経験的な「限界を超えた世界」を想像するのはカッコイイ。こういうのは「卒業しろ」と思われそうだ。現実で重要なのは個人的な限界の話であると。
戦略的に、中二病的な限界世界に、個人の限界世界を重ね合わせることはできないだろうか。
個人的な限界世界と、間−個人的な限界世界と、原理的な限界世界は重なるのだろうか。間−個人的な限界世界の議論は、原理的な限界世界への工学的アプローチにはなるが、原理的な隔たりが残る。わるあがきといえる。けれどこのあがきのみっともなさを、「限界を超えた世界」を志向する中二病のプライドとして自己肯定する。