脳内補完で完結した文章を書けるのがウェブ日記である。同じ脳の持ち主に伝わる点で、それは有意義である。

ウェブってのはあれだね。使い手の性質や心境がだめだと、全部だめになるね。あまりに手頃なネタが適度に転がっていて、極限の退屈に行き着くことができない。極限の退屈に至ればパソコンの前から離れる気にもなるけれど、じんわりじんわりと締めつけてこの場から逃してくれない。そのときの僕というのは、まさにウェブに使わされているのだなと思う。さあ、ここがやめどきだな。そう思う。ところが、WWWCの更新チェキをする。ふだんはあまり興味のないネタ系ニュースサイトに訪れる。あまり気にかけない言葉を検索したりする。まあそういのは極限の退屈とはほど遠いわけで、はかない楽しみを受けとめながら、ゆるやかな罪悪感が僕の心を漂う。すべてがゆるやかで、あまりに流れることが心地良いものだから、変化する気が失せる。そうやってここに縛られる。9秒の喜びというのは、いくらかき集めても9秒の喜びでしかないであろう。ところで。勉強なんかで「授業の時間を大切に」「自宅学習の時間を大切に」などとよく言われる。どっちやねん。僕は、そのどちらも「時間」にほかならないと思う。学校にいようとも家にいようとも、たとえば「50分」の価値は等しい。しかし、「50分」を「50分」として活かすのはなかなかに難しい。もう僕なんかは時間を活かすのがべらぼうに下手くそである。チリもつもれば山になるというが、チリを固めるのにどれだけの労力が必要なことだろうか。選べるものが大量のチリとひとつの山のどちらかだとしたとき、手にすべきものは明らかだ。なぜなら、そこに山があるからさ。文字と言葉の関係、言葉と文、文と文章、あるいは文章と思想などの関係にたとえてもよい。うそ。9秒ですら活かせない僕ですから。こんなことは、負けることを恐れ勝負から逃げる敗北者の虚勢である。敗北者には二つある。勝負に負ける者と、負ける可能性すら掴もうとしない者である。ウェブはくだらないものである。パソコンはろくでもないものである。そう感じたり言ったりするのは簡単だけれど、どうしようともそれは論にはならなず、観にすぎないのだよね。いま。僕にとって、ウェブはくだらない。くそである。こんなところからは離れよ。その先には世界が広がっているからだ。そんなことをテキストエディタに書いている。自己矛盾。あほかっつーの。ところで。人が感情を記憶できたら大変そうだね。それは感情を積み重ねるということだと思う。たいてい人は、同じような感情を(望むものであれ厭うものであれ)同じようにして繰り返す。いまこのような文章を書いている僕の感情も、おそらく(感情を記憶することはできないから確かめることは不可能だが)何度か繰り返しているものである。僕はこの感情を厭うが、なぜ繰り返すのか。忘れるからだ。かといって、積み重なってしまったら精神が病む。でもでも、病む前に望むべき感情へ辿りつけるかもしれない。まあでも、そんなことは9秒をあなどる僕にはできないことだ。活かさなければならないという条件つきで9秒か50分を選べるとする。僕は9秒を選ぶことしかできない。だって死ぬから。