おもしろがりすぎて、楽しみすぎて、なんも、つまんなくなった、はずがない。

合唱コンクール(略して合コン)が迫っている。きょうも練習していた。僕は歌が苦手で、生まれてこのかたカラオケにいったこともないが(それはそれで別の苦手も含まれているが)、合唱は嫌いでない。普段あまり大きな声をだすこともないので、良い生き抜きになる。真剣にやっても生き抜きでありうるというのは、ぜひとも心に留めておきたい。積極的休憩というやつか。調整さえうまくいけば、人は真剣でいつづけることができる。怠惰に満ちたいまの僕には、しかし遠い話。
というわけで、歌っているのは楽しい。上達する喜びもあった。それで満足していた。しかし、見落としているものがあった。僕の好きな言い回しでは「おもしろがる視点の紡績」「物語の発見」、つまり曲に込められた思いを感じ取ること。すでにあった楽しさが、これ以上楽しもうという試みを忘れさせた。思い出させたのは、曲のメッセージを説くクラスメートだ。
彼が話しはじめた時点で、僕は気づき、歌詞からある程度の「視点」「物語」を読み取れた。この歌詞にはこれほどの深みあった。「視点」「物語」をみつけるのは好きだ。一方で、彼はさらに説く。別のクラスメートのした解釈の伝言だ。それはまさに、音楽に対する解釈だった。「物語」のはじまりにおける、ゆるやかさやスタッカートに込められた表現。葛藤を滲み出す、曲調の変化、クレシェンドとデクレシェンドの絡み合い、フォルテフォルテッシモ(fff)なんていう空前の記号、それらの意味。歌詞にある「接続詞」ではあらわしきれない感情が、そこには込められていた。論理ではつながらない深みが、どこかにみえた。
僕は音楽にかんしては知識が薄い(じゃあ何に濃いか、と言われても困る)。音楽という表現に「視点」「物語」を見出せなかったことについては、悔しいとは思わない。音楽には、音楽に対する解釈がある。そう実感させたのは、いまの二人のクラスメートだ。音楽にも彼らにも、やはり、悔しいとは思わない。新しい「視点」「物語」に気づかせてくれたものたちに感謝したい。
すでに「歌う」「上達」する楽しみがあった。ゆえに、その先に「視点」「物語」という楽しみを再発見できた。そして、音楽と二人のクラスメートが、僕の知っている以上の「視点」「物語」を知らしめた。僕は昂揚した。
人間の欲求は「生存→社会→娯楽」へと段階を踏んで移っていく──リーナスの法則。僕はこのリーナス・トーバルズ氏の思想に強く共感している。ところが、楽しみを重んじるゆえに、楽しむことに抵抗を感じるようになった。
自分が楽しむだけでなく、僕は人に楽しみを提供したいとも考えている。「視点の提供」や「いざなうスタイル」「みちびくスタンス」だ。そのためには、楽しみを深く理解せばならない。しかし、いったん楽しんでしまうと、その先の楽しみへの道が閉ざされる──そう案じていた。したがって、何も楽しまなくなった。きっと、これ以上の楽しみがどこかにある。僕が手にしていいのは、そこにある大きな楽しみだ。それを人に伝えるんだ。そう考え、目前の楽しみをかたくなに拒んだ。
違う。楽しみは楽しみを呼ぶ。すでに知っている楽しみがあるから、その先の楽しみに辿りつけるんだ。楽しみは感情である。感情は、比較することでしか測れない。大きな楽しみというのは、「もっと楽しいこと」と同じだ。「もっと」、「もっと」、そうやって、感情はふくらんでいく。「これ」を踏み台にすらせずに「これ以上」を目指す僕は、本当に愚かだった。その先の、いったいどこに、大きな楽しみがあるというのか。
感情は比較である。学ぶこともまた、比較である。望むものは、比較のなかから姿をみせる。たとえ価値がないようでも、甘んじて受けよう。切ってはいけない、踏むのだ。積み上げることは、絶え間ない比較から成り立つ。失うものはない。要らないものは形を変えて踏み台になるだけだ。得ることで失うだなんて、もう恐れなくていい。