本当にわたしが信じたいことを確かめる

わたしには疑いがある。信じたいと望んでいるのに、でも、だって、どうして、とあいまいな疑念がわきあがり、信じたいことを信じれずにいる。ならば、文章に書けばよいのだ。言葉にすることで考えていることがよくわかり、確かな気持ちで信じられるようになる。考え、書き、信じるのだ。
そんなはずがない。書けば書くほど疑わしい。あいまいな疑念はなおさら膨らんでわたしを押し潰す。やっぱり書けないよ。言葉にすればするほど、うそになるよ。信じたいものを否定するのは簡単だ。否定しているから信じたがっているという事実がその理由である。
信じたいことを伝えるのは難しい。疑いをもったまま表現したものに批判を受けたらどうしようもない。やっぱり信じえないものだったのかとうなだれるしかない。はじめから信じなければよかった。
信じたいということと、信じられないということは紙一重だ。信じられないということを表現したとき、それに対する反論はすべてわたしへの否定のようで、実はわたしへの肯定に転じる。これほどの安堵はほかにない。信じたがっているわたしは、実は疑っている。そう自覚し表現した先にあるのは、もはや反論という肯定だけである。